お笑いコンビ「ニューヨーク」のツッコミ担当として活躍する屋敷裕政さん。2019年と2020年に連続でM-1グランプリの決勝に進出し、一躍人気芸人の仲間入りを果たしました。
実は屋敷さんは、関西の名門私立大学である同志社大学の出身というインテリ芸人です。偏差値63のやや難関学部を一般受験で合格した高い学力の持ち主でありながら、なぜお笑いの道を選んだのでしょうか。この記事では、屋敷さんの出身大学の詳細や大学時代のエピソード、そして大学卒業後にADを経て芸人になった経緯について詳しくご紹介します。
ニューヨーク屋敷裕政さんのプロフィールと基本情報
怖い夢ダンス、面白すぎてやばかった
あのティンティン…だけで思い出し笑い
そんなティンティンの裏で屋敷さんまたお痩せになったのかイケメンすぎて辛い絶対出待ちできない#屋敷顔ファンニューヨーク×かまいたち生配信(Zoom)https://t.co/4JAplEoYEz pic.twitter.com/XAOIpWpohy
— ぴんくのあざらし (@pink_azarashi_) May 12, 2020
屋敷裕政さんは1986年3月1日生まれ、三重県熊野市出身のお笑い芸人です。本名も屋敷裕政で、身長174cm、体重63kg、血液型はA型です。お笑いコンビ「ニューヨーク」ではツッコミを担当し、立ち位置は向かって右側です。
三重県熊野市は世界遺産の熊野古道があることで知られる地域で、屋敷さんの実家は市内の郊外、山の近くにありました。家族構成は両親と本人の3人家族で、屋敷さんは一人っ子として育ちました。しかし、1歳のときに火事で父親を亡くしており、以降は母子家庭で育っています。
女手一つで育つ
母親は熊野市内で「ひょうたん島」というカラオケスナックを経営し、女手ひとつで屋敷さんを育て上げました。屋敷さんの母親は空手の世界大会で2位になったほどの実力者で、この影響もあって屋敷さん自身も空手に打ち込むようになります。
子供の頃は父親がいなくて寂しいと思ったことはなかったと語る屋敷さんですが、母親を支えたいという思いは常に持っていたようです。この家庭環境が、後の進路選択にも大きな影響を与えることになります。
屋敷裕政さんの出身大学は同志社大学

同志社大学文学部社会学科の特徴と偏差値
屋敷裕政さんが高校卒業後に進学したのは、京都府にある同志社大学の文学部社会学科メディア専攻です。偏差値は63で、やや難関の学部として知られています。現在は社会学部メディア学科として独立していますが、屋敷さんが在籍していた当時は文学部の一専攻でした。
同志社大学は1875年に新島襄によって創立された、日本でも有数の歴史ある私立大学です。関西の私立大学では関西学院大学、立命館大学、関西大学と並んで「関関同立」と呼ばれ、高い評価を受けています。キャンパスは京都市内の今出川と京田辺市にあり、文系学部の多くは今出川キャンパスで学びます。
社会学科メディア専攻
社会学科メディア専攻では、マスメディアやコミュニケーション、情報社会について学ぶことができます。テレビ、新聞、インターネットなどのメディアが社会に与える影響や、メディアを通じた情報伝達の仕組みなどを研究する学問です。屋敷さんが後にテレビ制作会社のADになったことを考えると、この専攻選択は非常に理にかなっていたといえるでしょう。
同志社大学は多くの政治家、企業の代表者、アナウンサー、スポーツ選手などの有名人を輩出しており、屋敷さんの同期や先輩後輩にも現在活躍している著名人が多数います。
一般受験で合格した高い学力
屋敷さんは同志社大学に一般受験で合格しており、高い学力を有していました。偏差値63の学部に一般入試で合格するには、相当な勉強が必要です。特に同志社大学の文学部は人気が高く、競争率も高い学部でした。
しかし、屋敷さんの家庭は母子家庭で経済的に恵まれていたわけではありません。そのため、大学には奨学金制度を利用して進学しています。母親が一人で働いて育ててくれたことへの感謝の気持ちと、「大学まで行かせてもらったのに、博打のような人生は歩めない」という思いが、屋敷さんの中に強くありました。
この奨学金を利用しての進学という経験は、後に芸人になる決断をする際にも大きな葛藤を生むことになります。母親に苦労をかけて大学まで行かせてもらったのに、安定した職を捨てて芸人になっていいのか。この問いと向き合いながら、屋敷さんは自分の道を模索していくことになるのです。
大学入学までの経緯と高校時代

三重県立木本高校での学生生活
屋敷さんが進学したのは、地元の三重県立木本高校です。この高校は部活動が盛んで、特にラグビー部が花園の常連として知られています。偏差値は50〜53程度で、普通科と総合科の2つの学科が設置されていますが、屋敷さんがどちらに在籍していたかは公表されていません。
高校時代の屋敷さんは「やひろ」という愛称で親しまれていました。高校3年生のときの体育祭では応援団を務めており、ガレッジセールのゴリさんの「ゴリエ」のダンスを披露したというエピソードが残っています。このことからも、高校時代から人を楽しませることが好きだったことが伺えます。
芸人への憧れ
実は屋敷さんはお笑いが好きで、この頃から芸人になりたいと思っていたといいます。しかし、「覚悟」がなかったとインタビューで語っており、本格的に芸人を目指すことはありませんでした。母親を一人で支えなければならないという責任感と、芸人という不安定な職業への不安が、当時の屋敷さんを踏みとどまらせていたのでしょう。
高校時代から交際していた同級生の女性とは、実に19年間という長い交際期間を経て、2022年3月に結婚しています。その女性とは同級生だった別の女子の紹介で付き合うようになり、当時はボーリング場やイオンなどでデートをしていたそうです。19年間という交際期間は、屋敷さんの誠実な人柄を物語っているといえるでしょう。
空手で東海大会優勝の実力
ニューヨークの屋敷の高校時代がめちゃくちゃイケメンだし、
ぺこぱのシュウペイの高校時代もめっちゃ爽やかイケメンそうだし、
なんならクロちゃんでさえ高校時代はイケるw pic.twitter.com/hTRMNGBs9D— とも太郎☀️🌴 (@cocoboy0729) January 19, 2021
高校時代の屋敷さんは空手に打ち込んでおり、東海大会で優勝したほどの腕前でした。段位は伝統派空手二段を取得しており、相当な実力者だったことがわかります。
母親が空手の世界大会で2位になったほどの実力者だったこともあり、屋敷さんも小学校時代から空手を続けていました。東海大会は愛知県、岐阜県、三重県、静岡県の選手が集まる大きな大会で、ここで優勝するということは並大抵の努力では達成できません。
空手を通じて培った精神力や忍耐力は、後の芸人生活でも大いに役立ったはずです。漫才のネタ作りや舞台での緊張感、そして売れない時期を耐え抜く力。空手で鍛えた心身は、屋敷さんの芸人人生の大きな支えとなりました。
フォークデュオ「15」での音楽活動
高校時代の屋敷さんは、空手だけでなく音楽にも情熱を注いでいました。「ゆず」や「19」に憧れて、「15」というフォークデュオを組んでいたのです。中学時代からギターをはじめていた屋敷さんにとって、音楽は自己表現の大切な手段でした。
当時は地元で路上ライブもおこなっていましたが、不良に絡まれたことをきっかけに路上ライブはやめてしまいます。この経験から、屋敷さんはヤンキーが大嫌いになり、現在でも「元ヤンを讃えるのをやめよう」と述べています。
音楽活動を通じて、人前でパフォーマンスをする楽しさや、観客を楽しませる喜びを知った屋敷さん。この経験は、後にお笑いの道を選ぶ際の下地になったのかもしれません。現在でも「ゲスの極み乙女。」の川谷絵音さんなどのミュージシャンと交流があるのも、高校時代からの音楽への愛情が続いているからでしょう。
同志社大学での学生生活とエピソード

テニスサークル「SMASH」での活動
同志社大学に入学した屋敷さんは、「SMASH」というテニスサークルに所属しました。しかし、このサークルはテニスを年に2度ほどしかしないお遊びサークルだったといいます。
実は、屋敷さんが最初に興味を持ったのは喜劇研究会でした。学園祭で、後に芸人仲間となる東ブクロさん(さらば青春の光)とカズレーザーさん(メイプル超合金)が組んでいたお笑いコンビ「フルハウス」の漫才を観客として見ていたのです。
同世代にのちの芸人仲間
カズレーザーさんとニューヨーク屋敷さんの対決ということで、同志社大学繋がりもありますが、個人的には前回の #Qさま にて出島でヒントを出した・貰ったの印象が強いですねw #ミラクル9 pic.twitter.com/1sCBQQ6XY3
— Kj (@KenjiYaha) February 17, 2021
カズレーザーさんは同じ大学の1学年上、東さんは同じ学年に在籍していました。二人の漫才に感動した屋敷さんは、喜劇研究会に入ろうと思いました。しかし、部員に「俺らめちゃくちゃタバコ吸うけどそれでもよければ」と言われ、「面白くない」と感じてしまいます。
そこで選んだのがテニスサークルでした。「モテそう」という理由で入ったそうですが、まったくモテなかったと後に語っています。大学生時代は爽やか系イケメンとしてモテていたという情報もありますが、本人の感覚では違ったようです。
テニスサークルでの活動はそれほど熱心ではなかったものの、サークルの仲間との交流は屋敷さんの大学生活を豊かなものにしました。真面目に勉強する学生、遊びに夢中な学生、将来に悩む学生。様々な人と出会う中で、屋敷さんは自分が本当にやりたいことを模索していったのです。
カズレーザーや東ブクロとの出会い
さらば青春の光の東ブクロ、まじ同志社顔すぎる。こういう系の顔の男100万人おんねんな。ニューヨーク屋敷みたいな顔の男は500万人おるけど。 pic.twitter.com/4ZIto6FWCT
— ぁんりん (@smanriii) May 24, 2023
同志社大学で屋敷さんが出会ったカズレーザーさんと東ブクロさんは、後に芸人仲間として再会することになります。当時、二人が属していた喜劇研究会には結局入りませんでしたが、学園祭での漫才を見た経験は、屋敷さんの心に強く残りました。
カズレーザーさんは現在、メイプル超合金として大活躍しており、クイズ番組などでもその博識ぶりを発揮しています。東ブクロさんはさらば青春の光として、M-1グランプリでも上位の常連です。同じ大学で同じ時期を過ごした仲間が、それぞれの道で成功している。この事実は、屋敷さんにとって大きな励みになったはずです。
大学時代に芸人を目指すという選択肢を見せてくれた二人の存在は、後に屋敷さんが芸人になる決断をする際の背中を押してくれたのかもしれません。「あの時、学園祭で見た二人のように、自分も舞台に立ちたい」。その思いが、屋敷さんの心の奥底でずっと燻っていたのです。
塾講師のアルバイト経験
大学時代の屋敷さんは、塾講師のアルバイトをしていました。同志社大学という高学歴を活かし、中学生や高校生に勉強を教えていたのです。
塾講師のアルバイトは、単に収入を得るだけでなく、屋敷さんにとって多くの学びがありました。人に何かを教えるという行為は、自分自身の理解を深めることにもつながります。また、生徒一人ひとりの理解度に合わせて説明の仕方を変えたり、わかりやすい例えを考えたりする経験は、後の漫才のネタ作りにも役立ったでしょう。
アルバイトの日々
奨学金を借りて大学に通っていた屋敷さんにとって、アルバイトは生活費を稼ぐために必要不可欠でした。しかし同時に、塾講師という仕事を通じて、人とコミュニケーションを取る楽しさや、誰かの役に立つ喜びを感じることができました。
大学時代は、芸人になりたいという気持ちがありながらも諦めていた時期でした。インタビューでは「在学中から芸人になりたいという想いはあったけれど、現実的じゃないな、と諦めていましたね。無理言って私立に通わせてもらったので、母親に申し訳ない気持ちが大きかったかな」と語っています。母親への申し訳なさと、自分の夢。この二つの間で揺れ動きながら、屋敷さんは大学生活を送っていたのです。
大学卒業後の進路と芸人への転身
ニューヨーク屋敷とはIVSテレビ制作の新卒同期入社で一緒にテレビ番組のADやって、屋敷が芸人になった後もずっと仲良くてまた一緒に番組をつくれて本当に楽しみ。
これから毎週土曜20時に新作動画を配信していきます!チャンネル登録1万人目指して頑張ります!#屋敷ゴルフ pic.twitter.com/rXTxumGbbi— 樋渡昇一郎アカツキメディアスタジオ代表 (@hiwatashi1985) July 12, 2025
テレビ制作会社へのADとしての就職
同志社大学を卒業した屋敷さんは、テレビ制作会社にAD(アシスタントディレクター)として就職しました。「大学まで行かせてもらったのに、博打のような人生は歩めない」という思いから、安定した職を選んだのです。
一番興味のあったテレビやバラエティの世界で働けることは、屋敷さんにとって大きな喜びでした。大学で学んだメディア学の知識を活かせる仕事でもありました。配属されたのは、『ネプリーグ』や『ザ!鉄腕!DASH!!』といった人気番組でした。
過酷な仕事内容
しかし、ADの仕事は想像以上に過酷でした。残業も多く、ほぼ寝れない日が続く中、地方ロケにも行きます。とにかく怒られてばかりで厳しい日々でしたが、それでも屋敷さんは必死に食らいつきました。自分が希望していた人気番組を担当させてもらい、そこで学ばせてもらった経験は大きかったと後に語っています。
ADとして働く中で、屋敷さんはテレビ番組がどのように作られるのか、その裏側を知ることができました。ディレクターの指示の出し方、カメラマンの撮影技術、タレントの立ち振る舞い。全てが勉強になりました。しかし同時に、「自分は裏方ではなく、画面に映る側になりたい」という思いも次第に強くなっていったのです。
M-1グランプリDVDが人生を変えた瞬間
ADとして働き始めて約1年が経った頃、屋敷さんの人生を大きく変える出来事が起こります。たまたま見ていたM-1グランプリの舞台裏を集めたDVDが、屋敷さんの心を激しく揺さぶったのです。
「急に涙が溢れてきちゃって。『あかん、俺はこっち側に行きたい!』と思ったんです。うわっ、芸人かっこええ! って」。屋敷さんは当時を振り返ってこう語っています。舞台裏で必死にネタを作り、本番に向けて緊張と闘い、そして舞台で全てを出し切る芸人たちの姿。その姿に、屋敷さんは心を奪われました。
大学時代から抱いていた「芸人になりたい」という思いが、一気に噴き出してきました。ADとして裏方で働くことも楽しかったけれど、それは本当に自分がやりたいことではない。自分は舞台に立って、人を笑わせたい。その気持ちが抑えられなくなったのです。
母への思い
しかし、すぐに辞表を出すことはできませんでした。母親に苦労をかけて大学まで行かせてもらい、やっと就職したのに、1年で辞めて芸人になる。そんなことを言ったら、母親はどう思うだろう。葛藤の日々が続きました。
そんなとき、一つ上の先輩が突然「実はオレ、芸人になろうと思っているんだ」と言い出しました。聞いたら既にプロデューサーにも伝えているといいます。この出来事が、屋敷さんの背中を押しました。「そこから3日間くらい、辞めたいけど言えない日々が続きました」と屋敷さんは語っています。
NSC東京校15期への入学決意

意を決して会社に辞めたいと伝えたところ、案の定「あいつに影響されたのか?」と聞かれました。しかし屋敷さんは、「前から芸人になるつもりでした」としっかりと伝えました。まさかこんなにもタイミングが重なってしまうなんて、と驚いたでしょうが、これも運命だったのかもしれません。
こうして1年のAD経験を経て退社し、2009年に吉本総合芸能学院(NSC)東京校15期生として入学しました。ちなみにNSCの同期には、デニスや横澤夏子さんなどがいます。
NSCでは、漫才の基礎から舞台での立ち振る舞い、ネタの作り方まで、芸人として必要なスキルを一から学びました。大学を卒業し、社会人経験もある屋敷さんにとって、NSCでの学びは新鮮なものでした。
ニューヨーク結成
2010年、NSCの同期だった嶋佐和也さんとお笑いコンビ「ニューヨーク」を結成します。嶋佐さんはボケ担当、屋敷さんはツッコミ担当という役割分担で、二人の漫才は徐々に評価を高めていきました。
コンビ結成から9年後の2019年、「ニューヨーク」はM-1グランプリの決勝に進出します。決勝では「ミルクボーイ」が優勝しましたが、決勝進出によって「ニューヨーク」の知名度は大幅に上昇しました。翌2020年も連続で決勝に進出し、今や人気芸人の仲間入りを果たしています。
まとめ:大学での学びが築いたニューヨーク屋敷さんの現在
屋敷さんお誕生日おめでとうございます🎈🎊
ニューヨークファン、お笑いファンになったきっかけは屋敷さんのそのかっこいいお顔です
私は売れっ子になった今でも屋敷さんかっこいいと思っているのでこれからも言い続けます🥰#屋敷顔ファン#匂わせ pic.twitter.com/J4XzpPlo4G— ぴんくのあざらし (@pink_azarashi_) March 1, 2022
ニューヨーク屋敷裕政さんの大学時代は、自分の本当にやりたいことを模索する時期でした。同志社大学という関西の名門私立大学で学び、メディア学を専攻したことは、後のAD経験や芸人としての活動に大きく影響しています。
テニスサークルでの活動、カズレーザーさんや東ブクロさんとの出会い、塾講師のアルバイト。大学時代の様々な経験が、屋敷さんの人格形成に寄与しました。そして何より、「芸人になりたい」という思いを心の中に抱き続けながら、母親への申し訳なさから諦めかけていた時期でもありました。
大学卒業後、テレビ制作会社のADとして働いた1年間は、屋敷さんにとって非常に重要な期間でした。テレビ番組の裏側を知り、芸人たちの姿を間近で見る中で、「自分も舞台に立ちたい」という思いが確固たるものになりました。M-1グランプリのDVDを見て涙を流し、芸人になる決意を固めた瞬間は、屋敷さんの人生の転機となりました。
同志社大学で培った学力とコミュニケーション能力、ADとして学んだテレビ番組の作り方、そして何より「本当にやりたいことを諦めない」という強い意志。これらすべてが、現在の「ニューヨーク」屋敷裕政さんを作り上げています。
高学歴インテリ芸人として、ツッコミの切れ味とインテリジェンスを兼ね備えた屋敷さん。2022年には19年間交際した高校時代の同級生と結婚し、プライベートでも充実した日々を送っています。同志社大学での学びと、そこから続く挑戦の日々が、今の屋敷さんの活躍を支えているのです。今後のさらなる飛躍から目が離せません。


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