松下洸平の高校は都立片倉高校|造形美術コースで画家を目指した青春と歌手への転身

俳優・松下洸平さんの出身高校は、東京都立片倉高校の造形美術コースです。母親が画家という環境で育った松下さんは、幼少期から油絵に親しみ、高校では本格的に画家を目指していました。

毎日2〜4時間の美術授業を受け、老人ホームで絵を教えるボランティア活動も行っていた高校時代。しかし高校3年生で映画「天使にラブソングを2」に感動し、突然歌手を志すことになります。

この記事では、都立高校唯一の美術専門コースでの学生生活、ヒップホップダンス同好会設立で女子80人が入部した「最大のモテ期」、そして画家から歌手・俳優への劇的な転身の軌跡を詳しく解説します。

  1. 松下洸平の出身高校は都立片倉高校【造形美術コース】
    1. 都立片倉高校造形美術コースの特徴と偏差値
    2. なぜ造形美術コースを選んだのか
    3. 「あさイチ」出演で特定された出身校
  2. 松下洸平の高校時代の美術活動と画家への道
    1. 油絵専攻として本格的に学んだ高校時代
    2. 老人ホームで絵を教えたボランティア活動
    3. 陶芸の経験も持っていた高校時代
    4. 美術大学進学を目指していた高校2年生まで
  3. ヒップホップダンス同好会設立と「最大のモテ期」
    1. 友人と2人で立ち上げたダンス同好会
    2. 部長を1ヶ月で辞めさせられた理由
    3. 新入生の前でのパフォーマンスで女子80人が入部
    4. 厳しい練習で20名に絞られた本格的な活動
  4. 高校3年生で人生が変わった映画「天使にラブソングを2」
    1. 画家志望から歌手志望への転換点
    2. 母親の猛反対を受けた進路変更
    3. それでも折れた母親の理解
    4. R&Bに刺激された音楽への目覚め
  5. 松下洸平の中学時代|ストリートダンスとの出会い
    1. 八王子市立甲ノ原中学校での帰宅部生活
    2. ストリートダンスを始めた中学時代
    3. 中学卒業後のニューヨーク旅行
  6. 松下洸平の小学校時代|画家の母と過ごした日々
    1. 八王子市立秋葉台小学校での外遊びより絵を描く少年時代
    2. 母子家庭で育った背景と経済的な困難
    3. 幼少期からソウル・ヒップホップに親しむ
    4. 幼少期のニューヨーク旅行と母親の愛情
    5. 一家全員が左利きという珍しい家族
  7. 東京ミュージックアンドメディアアーツ尚美での音楽修行
    1. 専門学校のヴォーカル学科で歌手を目指す
    2. 作詞・作曲を始めた専門学校時代
    3. 演技の勉強も並行してスタート
  8. 「ペインティング・シンガーソングライター」としてのデビュー
    1. 絵を描きながら歌う独自のスタイル
    2. 2008年に歌手デビュー「STAND UP!」
    3. 2010年から俳優業へシフト
  9. NHK朝ドラ「スカーレット」でブレイク
    1. ヒロインの相手役に大抜擢
    2. 朝ドラ出演後の反響と母親への恩返し
  10. 松下洸平の現在|俳優・シンガーとしての活躍
    1. 音楽活動も継続するライフワーク
    2. 数々の賞を受賞する実力派俳優へ
    3. 2025年7月に一般女性と結婚
  11. 同級生・友人との関係
    1. イラストレーター中元寺隆夢さんとの友情
  12. まとめ

松下洸平の出身高校は都立片倉高校【造形美術コース】

都立片倉高校造形美術コースの特徴と偏差値

松下洸平さんの出身高校は、東京都八王子市にある都立片倉高校です。松下さんは2002年4月に入学し、2005年3月に卒業しています。

同校の普通科の偏差値は49で、やや容易なレベルに位置づけられます。

しかし、松下さんが在籍していたのは普通科ではなく、造形美術コースです。この造形美術コースは、都立高校では片倉高校だけに設置されている非常に特殊な専門コースで、本格的に美術を学びたい生徒のための教育プログラムが組まれています。

造形美術コースの定員は1学年80名で、2クラス編成となっています。1年生の時には美術全般の基礎を学び、デッサンや色彩理論、美術史など幅広い知識を身につけます。

そして2年生からは専攻を選択し、油絵、日本画、彫刻、デザイン、工芸などの分野に分かれて、より専門的な学習を進めていきます。

松下さんは2年生から油絵専攻を選択しました。母親が画家であり、幼少期から油絵に親しんでいたため、油絵を選ぶのは自然な流れでした。

油絵専攻では、技法の習得はもちろん、構図や色彩感覚、表現力など、画家として必要な能力を総合的に磨いていきます。

造形美術コースの最大の特徴は、授業時間の多さです。毎日2〜4時間は美術の授業が組み込まれており、普通科の生徒と比べると圧倒的に美術に触れる時間が長くなっています。

この充実したカリキュラムにより、卒業生の多くが美術系大学に進学したり、デザイナーやイラストレーター、美術教師などの道に進んでいます。

松下さんが在籍していた当時の片倉高校は、普通科と造形美術コースが併設されていたため、両方の生徒が交流する機会もありました。

この点が後述する「あさイチ」での発言から出身校が特定されるポイントとなりました。

なぜ造形美術コースを選んだのか

松下洸平さんが都立片倉高校の造形美術コースを選んだ理由は、家庭環境に大きく影響されています。

松下さんの母親は美術系大学を卒業した画家で、自宅にはアトリエが設けられていました。松下さんは幼少期から、母親が絵を描く姿を見て育ちました。

母親は画家として作品を制作する傍ら、幼稚園で働いたり、老人ホームで絵を教えたりして生計を立てていました。

母子家庭で2人の息子を育てるのは経済的に大変だったはずですが、母親は芸術への情熱を失うことなく、子どもたちにも美術の素晴らしさを伝え続けました。

松下さんは3歳の頃から母親に油絵を習い始めました。キャンバスに絵の具を塗る感触、色が混ざり合う美しさ、自分の思いを形にする喜び。

こうした体験を通じて、松下さんは自然と美術の世界に惹かれていきました。外で友達と遊ぶよりも、家で絵を描いている方が楽しいと感じる子ども時代でした。

中学卒業後、松下さんは進路を考える際、迷うことなく美術系の高校を選びました。当初は都立芸術高校を第一志望としていたと推測されます。

都立芸術高校は美術科と音楽科を持つ専門高校で、多くの芸術家を輩出してきた名門校でした。

しかし、都立芸術高校は2010年に閉校することが決まっており、松下さんが受験する時期にはすでに募集を停止していた可能性があります。

そこで松下さんが選んだのが、都立片倉高校の造形美術コースでした。この選択は、母親にとっても望ましいものだったでしょう。

息子が自分と同じ画家の道を志すことは、母親にとって大きな喜びだったはずです。経済的に厳しい母子家庭ではありましたが、息子の夢を応援するために、母親は惜しみなくサポートしました。

松下さんは高校2年生まで、画家になることを真剣に考えていました。美術大学に進学し、画家として生きていく。それが松下さんにとって当然の未来像でした。

しかし、高校3年生の時に人生の転機が訪れることになります。

「あさイチ」出演で特定された出身校

松下洸平の高校は都立片倉高校|造形美術コースで画家を目指した青春と歌手への転身

松下洸平さんの出身高校が都立片倉高校であることが確定したのは、NHKの情報番組「あさイチ」に出演した際の発言がきっかけでした。

松下さんは番組の中で、高校時代について「美術科であり、普通科の生徒とも交流があった」という趣旨の発言をしました。

この発言が、出身校特定の重要な手がかりとなりました。東京都内の美術系高校を調べると、都立芸術高校は美術科と音楽科のみで普通科が存在しませんでした。

一方、都立片倉高校は普通科と造形美術コースが併設されており、両方の生徒が同じ校舎で学んでいました。このことから、松下さんの出身校は都立片倉高校であることが特定されたのです。

さらに、松下さんと高校時代から友人であるイラストレーターの中元寺隆夢さんが、都立片倉高校の造形美術コース出身であることも判明しています。

中元寺さんは松下さんについて、「自分のことでも泣くし人のことでも涙を流す。本気で怒ったり笑ったりする熱いヤツ」と評しており、高校時代から親交があったことが分かります。

この2つの情報から、松下洸平さんが都立片倉高校造形美術コース出身であることは確実と言えるでしょう。

松下さん本人は出身校について詳しく語ることは少ないですが、これは芸能人が母校に迷惑をかけないための配慮と考えられます。

都立片倉高校にとって、松下洸平さんは誇るべき卒業生の一人です。画家を目指していた高校時代から、歌手、そして俳優へと転身し、現在ではNHK朝ドラに出演するほどの活躍を見せています。

美術コースで培った表現力や感性が、現在の俳優業にも活きているのは間違いありません。

松下洸平の高校時代の美術活動と画家への道

油絵専攻として本格的に学んだ高校時代

松下洸平さんは高校2年生から油絵専攻を選択し、画家になるための本格的な訓練を受けました。

都立片倉高校の造形美術コースでは、毎日2〜4時間の美術授業があり、松下さんはその時間を油絵の技術向上に費やしました。

油絵は、他の絵画技法と比べて習得が難しいとされています。絵の具の扱い方、筆の使い方、色の重ね方、乾燥時間の計算など、技術的に学ぶべきことが多岐にわたります。

さらに、構図の取り方や遠近法、光と影の表現など、絵画の基本的な理論も身につける必要があります。

松下さんは母親から幼少期に基礎を学んでいたため、高校でのスタートは比較的スムーズだったと考えられます。

しかし、プロの画家を目指すとなれば、趣味のレベルとは比較にならない高度な技術が求められます。松下さんは高校の授業に真剣に取り組み、少しでも母親に近づこうと努力を重ねました。

油絵専攻では、静物画、風景画、人物画など、様々なモチーフに取り組みます。それぞれのモチーフには異なる難しさがあり、特に人物画は表情や肌の質感を表現する技術が必要で、最も難易度が高いとされています。

松下さんも、こうした課題に一つひとつ取り組みながら、画家としての力を磨いていきました。

高校の美術室で、キャンバスに向かって絵を描く時間。それは松下さんにとって、最も集中できる貴重な時間でした。

絵を描いている時は、他のことを一切考えず、ただ目の前の作品に没頭できる。この感覚は、後に俳優として役に入り込む際の集中力にもつながっているのかもしれません。

松下さんは高校2年生の終わり頃まで、画家になることを疑っていませんでした。美術大学に進学し、母親と同じように画家として生きていく。それが松下さんにとって自然な未来像でした。母親も息子の才能を認め、画家としての道を応援していました。

老人ホームで絵を教えたボランティア活動

松下洸平さんの高校時代のエピソードで特筆すべきは、老人ホームで絵を教えていたことです。これは母親の代わりに行っていたボランティア活動でした。

松下さんの母親は、幼稚園で働く傍ら、都内の老人ホームで高齢者に絵を教える活動をしていました。これは母親にとって、画家としての技術を社会に還元する意義深い仕事でした。

しかし、母親の仕事が忙しく、どうしても老人ホームに行けない時がありました。

そんな時、松下さんが母親の代わりに老人ホームに行き、高齢者たちに絵を教えていたのです。高校生が老人ホームで絵画教室の講師を務めるというのは、非常に珍しいことです。

しかし、松下さんは母親から学んだ技術と、高校で磨いた技能を活かして、立派に講師の役割を果たしました。

高齢者に絵を教える経験は、松下さんにとって貴重な学びとなりました。相手のレベルに合わせて説明する力、分かりやすく伝える工夫、相手の気持ちに寄り添う姿勢。

こうしたコミュニケーション能力は、老人ホームでの活動を通じて自然と身についていきました。

また、高齢者の方々から人生の話を聞く機会も多かったはずです。戦争の体験、家族の思い出、若い頃の夢。こうした話を聞くことで、松下さんは人間の多様な生き方に触れることができました。

この経験は、後に俳優として様々な役を演じる際に、人間理解の深さとして活きているのかもしれません。

母親を助けるために始めたボランティア活動でしたが、松下さんにとっては画家としての技術を実践する場でもありました。

自分が教えたことで、高齢者の方々が楽しそうに絵を描く姿を見る喜び。それは松下さんにとって、画家という仕事の素晴らしさを実感する機会でもあったのです。

陶芸の経験も持っていた高校時代

松下洸平さんは油絵を専攻していましたが、高校の美術コースでは油絵以外の美術分野にも触れる機会がありました。その一つが陶芸です。

松下さんは2019年のNHK朝ドラ「スカーレット」で陶芸家の役を演じました。この作品はヒロインが女性陶芸家として成長していく物語で、松下さんは夫であり同じく陶芸家である役を演じました。

ドラマの中で陶芸のシーンが多数あり、松下さんは実際にろくろを回して作品を作る演技を披露しています。

この役について、松下さんはインタビューで「高校時代に何度か陶芸をやったことがある」と語っています。

都立片倉高校の造形美術コースでは、油絵や彫刻だけでなく、陶芸や工芸など幅広い美術分野を学ぶ機会がありました。松下さんも授業の一環として、陶芸に触れる機会があったのです。

陶芸は、絵画とは異なる表現方法です。平面ではなく立体で作品を作り、土という素材の性質を理解し、焼成という化学的なプロセスも関わってきます。

高校時代に陶芸を経験していたことで、松下さんは「スカーレット」の役作りにおいて、陶芸家の手の動きや土を触る感覚をリアルに演じることができました。

美術系高校ならではの幅広い芸術体験が、後の俳優業に思わぬ形で役立ったのです。もし松下さんが普通科の高校に通っていたら、陶芸に触れる機会はなかったでしょう。

造形美術コースで学んだ経験が、俳優としてのキャリアにもプラスになっているのです。

美術大学進学を目指していた高校2年生まで

松下洸平さんは高校2年生の終わり頃まで、美術大学への進学を前提に学習を進めていました。美術系大学の受験では、一般的な学力試験に加えて、実技試験が課されます。デッサンや色彩構成など、美術の基礎的な技能を測る試験です。

松下さんが目指していた美術大学がどこだったかは明らかにされていませんが、母親が美術系大学の出身であることから、同じ大学を志していた可能性もあります。

あるいは、東京藝術大学や武蔵野美術大学、多摩美術大学など、日本を代表する美術大学を目指していたかもしれません。

美術大学に進学し、さらに高度な技術を学ぶ。そして卒業後は画家として作品を発表していく。これが松下さんの描いていた未来像でした。

母親と同じ道を歩むことは、母親への恩返しでもありました。母子家庭で経済的に苦労しながらも、自分を育ててくれた母親。

その母親が歩んできた画家という道を、自分も歩むことで、母親の苦労に報いたいという思いがあったのかもしれません。

高校2年生までの松下さんは、画家になることを疑っていませんでした。美術の授業に真剣に取り組み、老人ホームで絵を教え、自宅でも作品制作に励む。

画家を目指す高校生として、順調に歩みを進めていました。

しかし、高校3年生になった時、松下さんの人生は大きく変わることになります。それまで疑うことのなかった画家という進路が、突然揺らぎ始めるのです。

ヒップホップダンス同好会設立と「最大のモテ期」

友人と2人で立ち上げたダンス同好会

松下洸平さんは美術に打ち込む一方で、もう一つの情熱を持っていました。それがヒップホップダンスです。

松下さんは中学時代からストリートダンスを始めており、高校入学後もダンスへの情熱は冷めませんでした。

しかし、都立片倉高校にはヒップホップダンスの部活動がありませんでした。そこで松下さんは、普通科の友人と2人で、ヒップホップダンス同好会を立ち上げることにしました。

この決断は、松下さんの行動力とリーダーシップを示すものでした。

同好会を立ち上げるには、顧問の教師を見つけ、学校に申請を出し、活動計画を提出する必要があります。高校1年生でこうした手続きを自分たちで進めるのは、なかなか大変なことです。

しかし、松下さんは友人と協力して、必要な手続きを全て完了させました。

こうして誕生したヒップホップダンス同好会の初代部長に、松下さんが就任しました。部員は松下さんと友人の2人だけ。

小さなスタートでしたが、松下さんにとっては自分たちの居場所を作ることができた喜びがありました。

松下さんは幼少期から、母親の影響で音楽に親しんでいました。両親がよくソウルやR&B、ディスコミュージックを聴いていたため、松下さんも自然とこうした音楽に親しむようになりました。

中学生になると、さらにヒップホップにも興味を持ち、音楽を聴くだけでなく、自分も踊りたいと思うようになったのです。

ヒップホップダンスは、音楽のリズムに合わせて自由に身体を動かす表現方法です。決まった振付を完璧に踊ることよりも、自分なりの個性やスタイルを出すことが重視されます。

この自由な表現スタイルが、松下さんの性格に合っていたのかもしれません。

部長を1ヶ月で辞めさせられた理由

松下洸平の高校は都立片倉高校|造形美術コースで画家を目指した青春と歌手への転身

初代部長として意気揚々とスタートした松下さんでしたが、なんとわずか1ヶ月で部長を辞めさせられてしまいます。その理由は、松下さんの自由奔放すぎる行動にありました。

松下さんは高校に制服を着てこないことが多かったそうです。造形美術コースでは絵の具を使う授業が多いため、汚れても良い服装で来ることが推奨されていましたが、それにしても制服を全く着ないというのは問題でした。

また、松下さんはスケートボードで校舎をグルグル回って遊ぶこともあったそうです。

こうした行動を見た教師たちは、「あいつだと誰もついてこないから部長を辞めさせろ」と判断しました。

確かに、部長が校則を守らず自由勝手に振る舞っていては、他の生徒が従うはずがありません。こうして松下さんは、部長就任からわずか1ヶ月で、その座を降りることになりました。

この出来事は、松下さんの型にはまらない性格を示すエピソードです。規則や常識に縛られず、自分らしく生きたいという思いが強かったのでしょう。

ただし、組織のリーダーとしては、ある程度の規律を守る必要があることも学んだはずです。

後に松下さんは、このエピソードを笑い話として語っています。若気の至りだったと反省しつつも、あの頃の自由な自分も悪くなかったという思いもあるようです。

この経験は、松下さんにとって、リーダーシップとは何か、組織における自分の役割とは何かを考える機会になったのかもしれません。

新入生の前でのパフォーマンスで女子80人が入部

部長を辞めさせられた松下さんでしたが、ヒップホップダンス同好会の活動自体は続けていました。そして2年生になった時、驚くべき出来事が起こります。

高校では毎年、新入生に向けた部活動紹介の機会があります。各部活やサークルが新入生の前でパフォーマンスや活動内容の説明を行い、新入生に入部を呼びかけるイベントです。

松下さんたちのヒップホップダンス同好会も、この機会に新入生の前でダンスパフォーマンスを披露することにしました。

松下さんと友人は、新入生を惹きつけるために、かっこいいダンスを披露しようと張り切って練習しました。

そして当日、体育館のステージに立ち、ヒップホップの音楽に合わせて踊り始めました。

キレのある動き、リズムに乗ったステップ、2人の息の合ったコンビネーション。松下さんたちのパフォーマンスは、新入生たちを魅了しました。

特に女子生徒たちの反応は凄まじく、歓声と拍手が体育館中に響き渡りました。

パフォーマンスが終わった後、信じられないことが起こりました。なんと、女子生徒80人がヒップホップダンス同好会に入部を希望したのです。

前年まで部員が2人しかいなかった同好会に、一気に80人もの新入生が押し寄せたのです。しかも全員が女子でした。

松下さんは後のインタビューで、この時のことを「ちょっと怖かった」と振り返っています。2人だけの小さな同好会が、突然80人の大所帯になってしまったのです。どう対応していいか分からず、戸惑いもあったようです。

しかし、この出来事は松下さんにとって「最大のモテ期」でもありました。女子生徒たちは、松下さんたちのかっこいいダンスに憧れて入部してきました。

実質的には松下さんと友人のファンクラブのようなノリだったと、松下さん自身も認めています。

高校2年生の松下さんは、突然80人の女子生徒に囲まれる生活を送ることになりました。これは普通の高校生では経験できない、特別な時間だったことでしょう。

厳しい練習で20名に絞られた本格的な活動

しかし、松下さんたちは単なるファンクラブで終わらせるつもりはありませんでした。本格的にヒップホップダンスを学びたいという思いがあったため、入部してきた80人に対しても、かなり厳しい練習を課しました。

基礎的なステップの練習、リズムトレーニング、振付の習得。ヒップホップダンスは見た目以上に体力と技術が必要なダンスです。

初心者がいきなり踊れるものではありません。松下さんたちは、新入生に対して妥協することなく、本格的な指導を行いました。

最初は楽しそうに参加していた女子生徒たちも、練習の厳しさに徐々についていけなくなりました。

ファンクラブ気分で入部した生徒にとって、毎日の厳しい練習は想像以上の負担でした。少しずつ辞めていく生徒が増え、1年後には部員は20名ほどに減っていました。

しかし、残った20名は本当にダンスが好きで、上達したいという強い意志を持った生徒たちでした。

松下さんたちの厳しい指導についてきた彼女たちは、めきめきと腕を上げていきました。

そして驚くべきことに、松下さんたちの後輩の代では、全国大会で2位という素晴らしい成績を収めています。

さらに、その中にはプロのダンサーになった生徒もいたそうです。これは松下さんたちが、妥協せずに本格的な指導を続けた成果でした。

最初は2人だけだったヒップホップダンス同好会が、全国大会で2位になるレベルにまで成長したのです。松下さんのリーダーシップと、本物を追求する姿勢が、この成果を生み出したと言えるでしょう。

松下さんは後にミュージカル「ラディアント・ベイビー」に出演した際、高校時代に磨いたダンスの腕前を披露しています。

ヒップホップダンスで培った身体能力とリズム感は、俳優としての表現力にも大きく貢献しているのです。

高校3年生で人生が変わった映画「天使にラブソングを2」

画家志望から歌手志望への転換点

松下洸平さんの人生が大きく変わったのは、高校3年生の時でした。それまで画家を目指して美術大学への進学を考えていた松下さんでしたが、ある映画を観たことで、その進路が180度変わることになります。

その映画は、1993年公開の「天使にラブソングを2」でした。この作品は、ウーピー・ゴールドバーグ主演の「天使にラブ・ソングを…」の続編で、問題を抱える高校生たちが合唱を通じて成長していく物語です。

松下さんがこの映画を観たのは、高校3年生の進路決定の時期でした。美術大学を受験するための準備を進めている最中、何気なくこの映画を観たのです。

そして、映画の中で高校生たちがゴスペルを歌うシーンに、松下さんは衝撃を受けました。

大勢の生徒たちが心を一つにして歌う姿。魂を揺さぶるような力強い歌声。音楽が持つ圧倒的な表現力。松下さんは、このシーンを観て、心の底から感動しました。

そして「自分も歌いたい」という強烈な欲求が湧き上がってきたのです。

それまで松下さんは、音楽は好きでしたが、自分が歌手になるとは考えていませんでした。幼少期から親しんでいたソウルやヒップホップは聴く音楽であり、ダンスをする時のBGMでした。

しかし、「天使にラブソングを2」を観た後、松下さんの中で何かが変わりました。

「歌を歌いたい」という欲求が、それまでの「絵を描きたい」「ダンスをしたい」という欲求を超えて、松下さんの心を占めるようになったのです。

この瞬間、松下さんの人生の方向性が大きく変わりました。

母親の猛反対を受けた進路変更

画家から歌手へ。この劇的な進路変更を、松下さんは母親に伝えました。しかし、母親の反応は松下さんの予想以上に厳しいものでした。

母親は、息子の突然の進路変更に猛反対したのです。

母親の反対には、いくつかの理由がありました。まず、松下さんは高校3年生まで画家を目指して努力してきました。

美術大学に進学するために、美術系高校で真剣に学んできたのです。それなのに、突然歌手になりたいと言い出すのは、あまりにも唐突でした。

また、母親自身が画家として苦労してきた経験から、芸術の道で生きていくことの厳しさを知っていました。

画家として作品を売るだけで生活することは非常に難しく、母親も幼稚園で働いたり、老人ホームで教えたりして、なんとか生計を立てていました。

歌手という道も、画家と同じように厳しい世界です。安定した収入を得ることは容易ではありません。

さらに、母親は松下さんに画家としての才能を感じていました。幼少期から油絵を教えてきて、息子の成長を見守ってきた母親にとって、息子が自分と同じ画家の道を歩むことは大きな喜びでした。

それなのに、突然違う道に進もうとすることは、母親にとって受け入れがたいことでした。

母親は松下さんを説得しようとしました。「あなたには画家としての才能がある」「美術大学に進学して、きちんと技術を学びなさい」「歌手なんて、そんな簡単になれるものじゃない」。母親の言葉は厳しく、松下さんの決意を揺るがそうとしました。

しかし、松下さんの決意は固かったのです。「天使にラブソングを2」で感じた衝撃と、歌いたいという強烈な欲求は、母親の反対を受けても消えることはありませんでした。

むしろ、反対されればされるほど、自分の本当の気持ちに気づいていったのかもしれません。

それでも折れた母親の理解

母親と息子の対立は、しばらく続きました。しかし、最終的には母親が折れて、松下さんの夢を受け入れることになります。

母親が息子の夢を受け入れた理由は、いくつか考えられます。まず、松下さんの真剣な姿勢を見て、これが単なる気まぐれではないと理解したのでしょう。

息子が本当に歌手になりたいと心から願っていることを、母親は感じ取ったはずです。

また、母親自身も芸術家として生きてきた経験から、自分の情熱に従うことの大切さを知っていました。

母親も画家として、周囲の反対や経済的な困難に直面しながらも、自分の道を歩んできました。息子が自分の情熱に従って新しい道を選ぼうとしているのを、最終的には応援したいと思ったのかもしれません。

さらに、母親は息子を信じていました。松下さんは高校時代、美術だけでなくダンスにも打ち込み、ヒップホップダンス同好会を立ち上げて成功させました。

何かをやり遂げる力を持っていることを、母親は知っていました。その力があれば、歌手という新しい道でも、きっと何かを成し遂げられるはずだと信じたのです。

母親が最終的に息子の夢を受け入れた時、松下さんは心から感謝しました。松下さんは後に公式ブログで「僕を1人で育ててくれた母親に恩返しがしたい」と綴っています。

母子家庭で経済的に厳しい中、2人の息子を育て上げた母親。その母親が、息子の夢を応援してくれたことは、松下さんにとって何よりも大きな支えとなりました。

この経験は、松下さんに大きな責任感を与えました。母親が反対を押し切って認めてくれた夢だからこそ、必ず成功させなければならない。

母親に恩返しをするためにも、歌手として、そして俳優として成功しなければならない。この思いが、松下さんのその後の活動の原動力となっていくのです。

R&Bに刺激された音楽への目覚め

松下洸平の高校は都立片倉高校|造形美術コースで画家を目指した青春と歌手への転身

松下洸平さんが歌手を志すようになった背景には、「天使にラブソングを2」だけでなく、当時の音楽シーンも影響していました。

松下さんが高校生だった2000年代前半は、日本でもR&Bが人気を集めていた時期でした。

松下さんは幼少期から、両親の影響でソウルやR&B、ディスコミュージックを聴いて育ちました。しかし、それらは主に海外のアーティストの音楽でした。ところが2000年代に入ると、日本人アーティストの中にも、R&Bをかっこよく歌う人たちが出てきました。

平井堅さん、EXILE、CHEMISTRYなど、日本のR&Bシーンは非常に盛り上がっていました。

これらのアーティストは、高い歌唱力と洗練されたパフォーマンスで、多くの若者を魅了していました。松下さんも、こうした日本人アーティストの活躍に大きな刺激を受けました。

「日本人でもR&Bをかっこよく歌える」という事実は、松下さんにとって大きな発見でした。それまで海外のアーティストの専売特許だと思っていた音楽を、日本人が自分たちのスタイルで表現している。

この姿に、松下さんは「自分もできるかもしれない」という可能性を感じたのです。

また、ダンスをしていた経験も、音楽への興味を深める要因となりました。ヒップホップダンスは音楽と一体となって表現するものです。

ダンスを通じて、音楽のリズムや構造を身体で理解していた松下さんにとって、歌うことは自然な延長線上にあったのかもしれません。

幼少期から親しんできた音楽、高校時代に打ち込んだダンス、そして「天使にラブソングを2」での感動。これらが重なり合って、松下さんの中で「歌手になりたい」という強い思いが生まれたのです。

松下洸平の中学時代|ストリートダンスとの出会い

八王子市立甲ノ原中学校での帰宅部生活

松下洸平さんの出身中学校は、東京都八王子市にある公立校の八王子市立甲ノ原中学校です。松下さんは小学校と同じ地元の中学校に進学しました。

中学時代の松下さんは、意外にも部活動には所属していませんでした。帰宅部として、放課後は自由に過ごしていたのです。

運動神経が良く、高校ではダンス同好会を立ち上げるほどアクティブな松下さんですが、中学時代は正式な部活動には参加していませんでした。

帰宅部を選んだ理由は明らかにされていませんが、いくつかの推測ができます。一つは、既存の部活動に興味を持てなかったことです。

運動部には体育会系の厳しい雰囲気があり、文化部は松下さんの興味と合わなかったのかもしれません。

また、この時期の松下さんは、ストリートダンスに興味を持ち始めていました。学校の部活動よりも、自分で自由にダンスを楽しむ方が性に合っていたのかもしれません。

部活動に縛られず、放課後は友達と遊んだり、ダンスの練習をしたりする時間を大切にしていたと考えられます。

中学時代は、思春期の多感な時期でもあります。自分が何に興味があるのか、何をしたいのか、模索する時期でした。

松下さんも、この時期に様々なことを試しながら、自分の好きなことを見つけていったのでしょう。

ストリートダンスを始めた中学時代

松下洸平さんが本格的にストリートダンスを始めたのは、中学時代でした。幼少期から音楽に親しんでいた松下さんにとって、音楽に合わせて身体を動かすダンスは自然な興味の対象でした。

2000年代初頭は、日本でもストリートダンスがブームになっていた時期でした。EXILEをはじめとするダンスパフォーマンスグループが人気を集め、若者の間でダンスが流行していました。

テレビ番組でもダンスバトルなどが放送され、ストリートダンスが注目を集めていました。

松下さんも、こうしたブームの影響を受けて、ヒップホップダンスに興味を持ちました。最初は友達と一緒に、見よう見まねで踊り始めたのかもしれません。

当時はYouTubeなどの動画サイトもあまり普及していなかったため、テレビで見たダンスを真似したり、ダンススタジオに通ったりして技術を磨いていったと考えられます。

ヒップホップダンスの魅力は、自由な表現にあります。クラシックバレエのように厳格な型があるわけではなく、音楽のリズムに合わせて自分なりに身体を動かすことができます。

この自由さが、型にはまることを嫌う松下さんの性格に合っていたのでしょう。

中学時代にストリートダンスを始めた経験は、松下さんのその後の人生に大きな影響を与えました。

高校ではダンス同好会を立ち上げ、専門学校卒業後は歌いながらダンスをするパフォーマンスを行い、俳優となった現在もダンスの技術を活かしています。中学時代の選択が、松下さんの表現者としての基礎を作ったのです。

中学卒業後のニューヨーク旅行

松下洸平さんは中学卒業後、母親と一緒にニューヨークに旅行しています。これは松下さんにとって、人生の転機となる重要な経験でした。

ニューヨークは世界的なアートの中心地です。メトロポリタン美術館、ニューヨーク近代美術館(MoMA)、グッゲンハイム美術館など、世界トップクラスの美術館が集まっています。

母親は画家として、息子に本物の芸術を見せたいという思いがあったのでしょう。

母親と松下さんは、ニューヨークの美術館を巡りました。教科書や図版でしか見たことのなかった名画を、実際に目の前で見る感動。

キャンバスの質感、絵の具の厚み、作品から発せられるオーラ。本物の芸術作品が持つ力を、松下さんは肌で感じ取りました。

この経験は、松下さんが美術系高校を目指す大きな動機となりました。プロの画家が描いた作品を実際に見ることで、自分もこのレベルに到達したいという目標ができたのです。

母親の狙いは見事に的中し、息子は画家への道をさらに真剣に考えるようになりました。

ニューヨークには、美術だけでなく音楽やダンスのシーンも発達しています。ヒップホップ発祥の地でもあり、ストリートダンサーたちのパフォーマンスを街中で見ることができます。

松下さんも、ニューヨークでストリートダンスの本場の雰囲気を感じ取ったかもしれません。

中学卒業という節目のタイミングでのニューヨーク旅行は、松下さんにとって、芸術への情熱をさらに深める貴重な体験となりました。

松下洸平の小学校時代|画家の母と過ごした日々

八王子市立秋葉台小学校での外遊びより絵を描く少年時代

松下洸平さんの出身小学校は、東京都八王子市にある公立校の八王子市立秋葉台小学校です。松下さんは地元の小学校に通い、ごく普通の小学生として育ちました。

しかし、松下さんの小学校時代には、他の子どもたちとは少し違う特徴がありました。それは、外で友達と遊ぶよりも、家で絵を描いていることの方が多かったことです。

多くの小学生は、放課後になると外に飛び出して、友達と鬼ごっこをしたり、ボール遊びをしたりします。

しかし、松下さんは家に帰ると、母親のアトリエに入って絵を描くことが多かったのです。

母親が画家だったため、自宅にはアトリエがありました。キャンバス、絵の具、筆、パレットなど、油絵を描くための道具が揃っていました。

松下さんは幼い頃から、こうした道具に囲まれて育ちました。絵を描くことが、松下さんにとって最も身近な遊びだったのです。

母親は息子に油絵を教えながら、絵を描く楽しさを伝えました。真っ白なキャンバスに、自分の思いを色で表現していく。

何もないところから、自分の手で作品を作り上げていく。この創造の喜びを、松下さんは幼い頃から知っていました。

外で遊ぶことも嫌いではありませんでしたが、絵を描いている時間の方が長かったのは確かです。友達からは「変わった子」と思われていたかもしれませんが、松下さんにとっては、それが自然な生活でした。

母子家庭で育った背景と経済的な困難

松下洸平さんは、母子家庭で育ちました。両親は松下さんが幼い頃に離婚し、松下さんと3歳年上の兄は、母親に引き取られました。

父親についての情報はほとんど公開されていませんが、松下さんは父親との思い出についてほとんど語っていません。

母子家庭で2人の息子を育てるのは、経済的に非常に大変なことです。母親は画家として作品を制作していましたが、絵を売るだけで生活費を稼ぐことは容易ではありません。

そのため、母親は幼稚園で働いたり、老人ホームで絵を教えたりして、複数の仕事を掛け持ちしていました。

松下さんは後に、母親が「なけなしのお金」で自分たち兄弟をニューヨークに連れて行ってくれたことを語っています。

この表現からは、母親の経済状況が決して楽ではなかったことがうかがえます。それでも母親は、息子たちに本物の芸術を見せたいという思いから、無理をしてでもニューヨーク旅行を実現させたのです。

経済的に厳しい状況の中でも、母親は画家としての夢を諦めませんでした。そして息子たちにも、芸術の素晴らしさを伝え続けました。

この母親の姿勢が、松下さんに大きな影響を与えたことは間違いありません。

松下さんが後に「僕を1人で育ててくれた母親に恩返しがしたい」と語っているのは、母親の苦労を知っているからこそです。

母子家庭で経済的に苦しい中、2人の息子を立派に育て上げた母親への感謝の気持ちが、松下さんの活動の原動力となっているのです。

幼少期からソウル・ヒップホップに親しむ

松下洸平の高校は都立片倉高校|造形美術コースで画家を目指した青春と歌手への転身

松下洸平さんが音楽に親しむようになったのは、両親の影響でした。松下さんの両親は音楽好きで、家ではよくソウルやR&B、ディスコミュージックが流れていました。

ソウルミュージックは、1960年代にアメリカで生まれた音楽ジャンルで、アフリカ系アメリカ人の文化から発展しました。

感情豊かなボーカル、リズミカルなビート、心を揺さぶる歌詞が特徴です。R&B(リズム・アンド・ブルース)も同様に、魂のこもった歌唱が魅力の音楽です。

松下さんは幼い頃から、こうした音楽を聴いて育ちました。子どもの頃は歌詞の意味は分からなかったかもしれませんが、音楽のリズムやメロディーは自然と身体に染み込んでいきました。

この経験が、後の松下さんの音楽性の基礎となっています。

小学生になると、松下さんはヒップホップにも興味を持ち始めました。ヒップホップは1970年代にニューヨークで生まれた音楽とダンスの文化で、ラップ、DJing、ブレイクダンス、グラフィティアートなどを含む総合的な文化です。

松下さんがヒップホップに惹かれたのは、そのかっこよさとエネルギーでした。ビートに乗せて言葉を紡ぐラップ、アクロバティックなダンス、ストリートから生まれた反骨精神。これらの要素が、松下さんの心を捉えました。

音楽好きの両親の影響で、松下さんは幼い頃から多様な音楽に触れる機会がありました。この経験が、後に松下さんが歌手を目指すきっかけとなり、さらには俳優として多様な役を演じる際の感性を育てることにもつながっているのです。

幼少期のニューヨーク旅行と母親の愛情

松下洸平さんは、中学卒業後だけでなく、幼少期にも一度ニューヨークを訪れています。この幼少期の旅行について、松下さんは印象深いエピソードを語っています。

「小さな頃ね、お兄ちゃんとお母さんと3人でNYに行った。母は僕たちに『自由の女神を観に行こう。』と言いました。

僕らは船に乗り自由の女神の前で写真を撮りました。そしてマンハッタンに帰る船の中、何故かは覚えてないけれど僕は不機嫌になり駄々をこねて、母を困らせた。」

この文章から、いくつかのことが読み取れます。まず、母親が息子たちをニューヨークに連れて行ったのは、「なけなしのお金」を使ってのことでした。

母子家庭で経済的に厳しい中、海外旅行は大きな出費です。それでも母親は、息子たちに世界を見せたいという思いから、無理をしてでもこの旅行を実現させたのです。

自由の女神を見て、写真を撮るという体験は、子どもの松下さんにとって忘れられない思い出となりました。

しかし、帰りの船の中で松下さんは不機嫌になり、駄々をこねて母親を困らせてしまいました。子どもらしい我儘ですが、後になって松下さんは、この時の自分の行動を反省しています。

母親が苦労して連れて行ってくれた旅行で、自分が母親を困らせてしまったこと。この記憶は、松下さんの心に残り続けています。

そして、母親への感謝と申し訳なさが、「母親に恩返しをしたい」という強い思いにつながっているのです。

この幼少期のニューヨーク旅行は、松下さんにとって、母親の愛情の深さを感じる出来事でした。経済的に厳しい中でも、息子たちのために最善を尽くそうとする母親の姿。

この姿が、松下さんの人生観や価値観に大きな影響を与えているのです。

一家全員が左利きという珍しい家族

松下洸平さんの家族には、珍しい特徴があります。それは、松下さん、母親、兄の3人全員が左利きだということです。

左利きは人口の約10%程度と言われており、比較的少数派です。家族全員が左利きというのは、さらに珍しいケースと言えるでしょう。

左利きには遺伝的な要因があるとされており、松下さんの家族の場合も、遺伝的に左利きになりやすい体質だったのかもしれません。

左利きの人は、右利き用に作られた道具や環境で生活するため、日常生活で不便を感じることがあります。

ハサミ、定規、自動改札機など、多くのものが右利き用に設計されています。しかし、家族全員が左利きの場合、家庭内では左利き用の環境を整えることができ、互いに理解し合える利点があったかもしれません。

興味深いのは、松下さんが2019年のNHK朝ドラ「スカーレット」で陶芸家の役を演じた際、右利きの設定だったことです。

松下さんは本来左利きですが、役作りのために右手でろくろを回し、陶芸をする演技をしなければなりませんでした。

利き手と反対の手で細かい作業をするのは、非常に難しいことです。陶芸は繊細な技術が必要で、手の動きが重要な意味を持ちます。

松下さんは、右手での陶芸の動きを何度も練習し、自然に見えるように演技しました。この努力は、役者としての松下さんのプロ意識の高さを示しています。

左利きという特徴も、松下さんの個性の一つです。美術、音楽、ダンス、そして演技。様々な分野で才能を発揮する松下さんですが、左利きという特性も、その独特な感性や表現力に影響を与えているのかもしれません。

東京ミュージックアンドメディアアーツ尚美での音楽修行

専門学校のヴォーカル学科で歌手を目指す

高校卒業後、松下洸平さんは東京ミュージックアンドメディアアーツ尚美(現・尚美ミュージックカレッジ専門学校)に進学しました。この学校は東京都文京区にある音楽・エンターテインメント分野の専門学校で、1926年に開校した歴史ある学校です。

松下さんが選んだのは、ヴォーカル学科でした。この学科では、歌唱技術の基礎から応用まで、プロの歌手として必要な技能を総合的に学ぶことができます。

発声法、音程の取り方、リズム感の養成、表現力の向上など、様々なカリキュラムが組まれています。

松下さんにとって、この専門学校での学びは、歌手としての基礎を築く重要な期間でした。それまで松下さんは、音楽は好きでしたが、本格的な声楽のトレーニングを受けたことはありませんでした。

専門学校で初めて、プロの指導者から体系的に歌を学ぶことになったのです。

発声法のレッスンでは、正しい呼吸法や声帯の使い方を学びます。喉を痛めずに力強い声を出すためには、腹式呼吸をマスターし、身体全体を使って声を出す必要があります。松下さんは、これらの基礎技術を一から学び、歌手としての土台を作り上げていきました。

また、音楽理論の授業では、楽譜の読み方、コード進行、曲の構造などを学びます。これらの知識は、後に松下さんが作曲をする際に大いに役立つことになります。

専門学校では、同じように音楽を志す仲間たちと出会うこともできました。

互いに刺激し合い、切磋琢磨する環境は、松下さんの成長を加速させました。ライブハウスでのパフォーマンスの機会もあり、実践的な経験を積むこともできました。

作詞・作曲を始めた専門学校時代

専門学校時代の松下さんは、歌を学ぶだけでなく、作詞・作曲にも挑戦し始めました。これは松下さんにとって、新たな表現の領域を開拓する試みでした。

ただし、松下さんは楽器を演奏することはできませんでした。ピアノやギターなどの楽器を使って作曲することができないため、松下さんは独自の方法を編み出しました。

それが、鼻歌で作曲するというやり方です。

メロディーが頭に浮かんだら、それを鼻歌で歌って録音します。そして、その録音を友人に聞いてもらい、友人が楽器で伴奏をつけてくれる。

こうして、松下さんのオリジナル曲が形になっていきました。

この方法は、一見すると原始的に思えるかもしれません。しかし、実は多くのシンガーソングライターが同様の方法で作曲しています。

メロディーは頭の中で生まれるものであり、それを楽器で再現するのは二次的な作業です。松下さんは、楽器が弾けないというハンディキャップを、協力してくれる友人の力を借りることで克服したのです。

作詞についても、松下さんは試行錯誤を重ねました。自分の思いや経験を言葉にする作業は、絵を描くことや歌を歌うこととは異なる創造性を必要とします。

松下さんは、日常の中で感じたこと、考えたことをノートに書き留め、それを歌詞という形に昇華させていきました。

専門学校時代に作詞・作曲を始めたことは、松下さんのアーティストとしての幅を大きく広げることになりました。

他人の曲を歌うだけでなく、自分のオリジナル曲を作り、それを歌うことができる。これは、シンガーソングライターとしての重要な資質です。

演技の勉強も並行してスタート

松下洸平さんは専門学校時代、歌だけでなく演技の勉強も始めました。これは、将来的な活動の幅を広げるための選択でした。

なぜ松下さんが演技に興味を持ったのかは明確ではありませんが、いくつかの理由が考えられます。一つは、歌手としてだけでなく、ミュージカルや舞台にも興味があったことです。

ミュージカルでは歌唱力だけでなく演技力も必要とされるため、両方の技能を身につけることは有益でした。

また、松下さんは表現することそのものに興味があったのかもしれません。絵を描くこと、ダンスをすること、歌を歌うこと、そして演技をすること。

これらはすべて、自分の内面や感情を外に表現する手段です。多様な表現方法を身につけることで、より豊かな表現者になれると松下さんは考えたのでしょう。

松下さんは、演劇のワークショップに参加し、演技の基礎を学びました。台本の読み方、役の作り方、舞台での動き方など、俳優として必要な技術を習得していきました。

この時期に、松下さんは後に女優として活躍する黒木華さんと出会っています。2人は同じ演劇のワークショップで学んでおり、若い頃から互いの才能を認め合う仲でした。

2015年には、サントリーオールフリーのCMで共演も果たしています。

専門学校時代に演技の勉強を始めたことが、後に松下さんが俳優として活躍する道につながりました。

当時は歌手を目指していた松下さんでしたが、演技という新たな表現手段を手に入れたことで、将来の選択肢が大きく広がったのです。

「ペインティング・シンガーソングライター」としてのデビュー

絵を描きながら歌う独自のスタイル

専門学校を卒業した松下洸平さんは、2008年から音楽活動を本格的に開始しました。しかし、松下さんが選んだスタイルは、通常のシンガーソングライターとは大きく異なるものでした。

それが「ペインティング・シンガーソングライター」です。

これは、自作曲に合わせて絵を描きながら歌うという、非常にユニークなパフォーマンスです。ステージ上にキャンバスを置き、歌いながら絵の具で絵を描いていく。

曲が終わる頃には、一枚の作品が完成している。このような芸術的なパフォーマンスは、当時の日本の音楽シーンでは非常に珍しいものでした。

このスタイルを生み出したのは、松下さんの多彩な才能があってこそでした。高校時代に本格的に学んだ油絵の技術、専門学校で磨いた歌唱力、そして作詞・作曲の能力。

これらすべてを組み合わせることで、「ペインティング・シンガーソングライター」という独自のジャンルが生まれたのです。

松下さんは「洸平」という芸名で活動を開始しました。都内のライブハウスやイベントスペースで、このユニークなパフォーマンスを披露しました。

観客は、歌を聴きながら、目の前で絵が完成していく様子を見ることができます。聴覚と視覚の両方で楽しめるパフォーマンスは、観客に強い印象を与えました。

このスタイルは、松下さんが母親から受け継いだ画家としての才能と、自分自身で見つけた音楽への情熱を、見事に融合させたものでした。

画家か歌手か、という二者択一ではなく、両方を同時にやってしまうという発想は、松下さんらしい自由な発想でした。

2008年に歌手デビュー「STAND UP!」

2008年11月、松下洸平さんは21歳で「STAND UP!」という楽曲で正式に歌手デビューを果たしました。これは松下さんにとって、プロの歌手としての第一歩でした。

「STAND UP!」は、松下さん自身が作詞・作曲した楽曲です。専門学校時代から作り続けてきた曲の中から選ばれた、思い入れのある作品だったことでしょう。

タイトルからは、前向きなメッセージと、自分自身を鼓舞する強い意志が感じられます。

しかし、デビュー曲のセールス面での成績は、残念ながら今ひとつでした。メジャーレーベルからのリリースではなかったこともあり、大きな話題になることはありませんでした。

CDの売上も限定的で、テレビやラジオで取り上げられる機会もほとんどありませんでした。

デビューしたからといって、すぐに売れるわけではない。この厳しい現実を、松下さんは身をもって体験しました。しかし、松下さんは諦めませんでした。

地道にライブ活動を続け、「ペインティング・シンガーソングライター」としてのパフォーマンスを磨き続けました。

2009年には、子供番組「Beポンキッキ」に出演する機会を得ました。この番組では、松下さんがエンディングテーマを歌い、子どもたちに向けて歌を届けました。

「Beポンキッキ」は歴史ある子供番組で、ここに出演できたことは、松下さんにとって一つの成果でした。

しかし、この後も松下さんの音楽活動は順調とは言えませんでした。ライブを開催しても観客は少なく、CDの売上も伸び悩みました。

歌手として生計を立てることは難しく、松下さんは厳しい現実に直面していました。

2010年から俳優業へシフト

松下洸平の高校は都立片倉高校|造形美術コースで画家を目指した青春と歌手への転身

2010年、松下洸平さんは大きな決断をします。音楽活動を一時休止し、俳優業を中心に活動をシフトすることにしたのです。

この決断は、松下さんにとって苦渋の選択だったかもしれません。高校3年生の時に画家の道を諦めて歌手を選び、母親の反対を押し切って専門学校に進学し、「ペインティング・シンガーソングライター」として独自のスタイルを確立してきました。

それなのに、音楽活動を休止するというのは、夢を諦めることにも思えたでしょう。

しかし、松下さんは冷静に現実を見つめていました。歌手として生計を立てることができない以上、別の道を模索する必要がありました。

専門学校時代から演技の勉強をしていた松下さんにとって、俳優業は自然な選択肢でした。

2009年から、松下さんは舞台俳優としても活動を始めていました。小劇場での舞台に出演し、演技の経験を積んでいました。舞台での松下さんの演技は好評で、演技力が評価され始めていました。

俳優業に専念することで、より多くの演技の機会を得ることができます。舞台での経験を重ね、やがてはテレビドラマや映画にも出演できるかもしれない。松下さんは、俳優としての道に可能性を見出したのです。

2012年、松下さんは「もう一度君に、プロポーズ」で初めて連続ドラマに出演しました。役柄は小さなものでしたが、テレビドラマへの出演は松下さんにとって大きな一歩でした。舞台での経験が、テレビでの演技にも活きていました。

2013年には、マクドナルドのCMに出演する機会も得ました。CMは多くの人の目に触れるため、知名度を上げる良い機会でした。少しずつですが、松下さんは俳優としての実績を積み上げていきました。

音楽活動を休止したものの、松下さんは歌うことを完全に辞めたわけではありませんでした。俳優業の傍ら、時折ライブを開催し、ファンに向けて歌を届け続けました。

音楽は松下さんにとって「ライフワーク」であり、人生の一部でした。いつか必ず音楽に戻る。そんな思いを持ちながら、松下さんは俳優としてのキャリアを築いていったのです。

NHK朝ドラ「スカーレット」でブレイク

ヒロインの相手役に大抜擢

2019年、松下洸平さんの人生は再び大きく変わります。NHK連続テレビ小説「スカーレット」で、ヒロインの相手役に抜擢されたのです。

これは松下さんにとって、俳優としてのキャリアにおける最大のチャンスでした。

NHKの朝ドラは、日本で最も視聴者数の多いドラマの一つです。毎朝8時から15分間放送され、多くの家庭で視聴されています。

朝ドラに出演することは、俳優にとって大きな注目を集める機会であり、ブレイクのきっかけとなることが多いのです。

「スカーレット」は、戸田恵梨香さん演じるヒロイン・川原喜美子が、女性陶芸家として成長していく物語です。

松下さんが演じたのは、喜美子の夫となる陶芸家・十代田八郎(そよだ はちろう)でした。

この役は単なる脇役ではなく、ヒロインの人生に大きな影響を与える重要な役どころでした。喜美子と八郎の恋愛、結婚、そして陶芸家としての共同生活。物語の中心を担う役を、松下さんは任されたのです。

オーディションを勝ち抜いて役を獲得した松下さんは、役作りに全力で取り組みました。陶芸家の役を演じるため、実際に陶芸を学び、ろくろを回す技術を習得しました。

高校時代に陶芸の経験があったことが、ここで役立ちました。

また、劇中では関西弁を話す必要がありました。松下さんは東京都出身ですが、両親が関西出身だったため、幼い頃から関西弁に馴染みがありました。

この背景が、自然な関西弁の演技につながりました。視聴者の中には、松下さんが関西出身だと誤解する人もいたほど、自然な関西弁でした。

朝ドラ出演後の反響と母親への恩返し

「スカーレット」の放送が始まると、松下洸平さんへの注目は一気に高まりました。それまで舞台を中心に活動し、一般的な知名度はそれほど高くなかった松下さんでしたが、朝ドラ出演により、全国的に名前が知られるようになりました。

SNSでは松下さんの演技が話題となり、「八郎さん素敵」「松下洸平って誰?」「イケメンすぎる」といった声が溢れました。ドラマの視聴率も好調で、松下さんの演技は高く評価されました。

松下さん自身、後のインタビューで「朝ドラ出演によりかなりの反響があった」と語っています。街を歩いていても声をかけられることが増え、仕事のオファーも大幅に増加しました。

舞台だけでなく、テレビドラマや映画、CMなど、様々な分野からの依頼が舞い込むようになりました。

しかし、意外だったのは家族の反応でした。松下さんは「家族の反応は普通だった」と語っています。母親や兄は、松下さんの活躍を喜んでいたものの、特別に大騒ぎすることはなかったそうです。

家族にとっては、松下さんはいつまでも家族の一員であり、テレビに出ていようと変わらない存在だったのでしょう。

それでも、松下さんにとって朝ドラ出演は、母親への恩返しを果たす大きな機会でした。高校時代に画家の道を諦め、歌手を目指すと言った時、母親は猛反対しました。

それでも最終的には息子の夢を応援してくれた母親。その母親に、成功した姿を見せることができたのです。

「僕を1人で育ててくれた母親に恩返しがしたい」。この思いが、松下さんの活動の原動力でした。朝ドラに出演し、多くの人に認められる俳優になったことで、松下さんはついにその思いを実現できたのです。母親も、息子の活躍を誇らしく思っていることでしょう。

松下洸平の現在|俳優・シンガーとしての活躍

音楽活動も継続するライフワーク

松下洸平さんは現在、俳優として多忙な日々を送っていますが、音楽活動も完全に辞めたわけではありません。

むしろ、松下さんは音楽を自分の「ライフワーク」と位置づけ、今でも大切にし続けています。

俳優業が忙しい合間を縫って、松下さんは定期的にライブを開催しています。

小規模なライブハウスでのアコースティックライブや、ファンとの交流を重視したイベントなど、様々な形で音楽活動を続けています。

また、新曲の制作も継続しており、動画サイトで配信することもあります。俳優として注目を集めるようになった今、松下さんの音楽にも多くの人が興味を持つようになりました。

ライブのチケットは即日完売することも珍しくなく、松下さんの音楽を聴きたいというファンが増えています。

松下さんにとって、音楽は単なる趣味ではありません。高校3年生の時に「天使にラブソングを2」を観て、歌手になりたいと決意した時の情熱は、今も変わらず心の中にあります。

俳優として成功した今でも、歌うことへの愛情は失われていないのです。

むしろ、俳優としての経験が、音楽にも良い影響を与えているかもしれません。様々な役を演じることで、人間の感情の機微を深く理解するようになりました。

この理解が、歌詞の表現や歌唱の表現力に活きているのです。

松下さんは、俳優と音楽家という2つの顔を持ち続けることを選びました。どちらか一方に絞るのではなく、両方を大切にする。

この選択は、高校時代に画家か歌手かで悩んだ末に、「ペインティング・シンガーソングライター」として両方をやってしまった松下さんらしい選択と言えるでしょう。

数々の賞を受賞する実力派俳優へ

NHK朝ドラ「スカーレット」出演後、松下洸平さんは実力派俳優として確固たる地位を築きました。多数の映画やドラマに出演し、その演技力は高く評価されています。

松下さんの演技の特徴は、役に対する深い理解と、細やかな感情表現です。台本を読み込み、役の背景や心理を徹底的に分析します。そして、その役が生きてきた人生を自分の中で再構築し、役になりきります。

この役作りの姿勢は、高校時代の美術コースでの経験が活きているのかもしれません。絵を描く際には、対象を観察し、その本質を理解することが重要です。

同様に、役を演じる際にも、その役の本質を理解することが重要なのです。

また、ダンスで培った身体表現力も、演技に大きく貢献しています。言葉だけでなく、身体全体で感情を表現する能力は、舞台やスクリーンで大きな効果を発揮します。

音楽活動で磨いた感性も、演技に深みを与えています。音楽は感情を表現する芸術であり、歌うことで感情を外に出す訓練を積んできました。

この経験が、役の感情を表現する際に役立っているのです。

松下さんの多彩なバックグラウンドが、俳優としての表現力を豊かにしています。美術、ダンス、音楽、そして演技。すべての経験が統合され、唯一無二の俳優・松下洸平を作り上げているのです。

松下さんは数々の賞も受賞しており、演技力は業界内でも高く評価されています。今後も、さらに多くの作品に出演し、様々な役に挑戦していくことでしょう。

2025年7月に一般女性と結婚

2025年7月、松下洸平さんは一般女性と結婚したことを発表しました。これは松下さんにとって、人生の新たなステージの始まりでした。

結婚相手は一般女性であり、詳細な情報は公開されていません。松下さんは相手のプライバシーを尊重し、必要以上の情報を公表しないという姿勢を貫いています。

母子家庭で育った松下さんにとって、自分自身の家庭を築くことは特別な意味を持つはずです。幼い頃に両親が離婚し、母親と兄と3人で暮らしてきました。

経済的に厳しい中、母親が一人で2人の息子を育て上げた苦労を、松下さんは身近で見てきました。

だからこそ、松下さんは家庭の大切さを誰よりも理解しているのでしょう。自分が家庭を築く時は、幸せな家庭を作りたい。そんな思いがあったはずです。

結婚の発表に対して、ファンからは祝福の声が多数寄せられました。松下さんの幸せを願う温かいメッセージが、SNSに溢れました。

俳優としての活躍と、プライベートでの幸せ。両方を手に入れた松下さんを、多くの人が応援しています。

結婚後も、松下さんは俳優業を続けています。家庭を持ったことで、さらに人間としての深みが増し、演技にも良い影響を与えることでしょう。

夫として、そして俳優として、松下さんの新たな挑戦が始まっています。

同級生・友人との関係

イラストレーター中元寺隆夢さんとの友情

松下洸平さんには、高校時代からの親友がいます。それが、イラストレーターの中元寺隆夢(ちゅうがんじ たかむ)さんです。

中元寺さんも都立片倉高校の造形美術コース出身で、松下さんとは同級生でした。

中元寺さんは現在、イラストレーターとして活躍しています。書籍の挿絵やキャラクターデザイン、広告のイラストなど、幅広い分野で作品を発表しています

。高校で学んだ美術の技術を活かし、プロとして成功を収めているのです。

中元寺さんは、高校時代の松下さんについて、興味深いコメントを残しています。「自分のことでも泣くし人のことでも涙を流す。本気で怒ったり笑ったりする熱いヤツ」。

このコメントから、松下さんの人間性が垣間見えます。感情を素直に表現し、嘘をつかない性格。自分のことだけでなく、他人のことでも涙を流せる優しさ。

本気で怒り、本気で笑う情熱。こうした特徴は、松下さんの俳優としての表現力の源泉となっているのでしょう。

高校時代、美術系のコースで一緒に学んだ2人は、互いの才能を認め合っていました。松下さんが画家から歌手へ、そして俳優へと道を変えていく様子を、中元寺さんは近くで見守っていました。そして中元寺さん自身も、イラストレーターとして自分の道を歩んでいきました。

2人とも、高校で学んだ美術を基盤としながら、それぞれ異なる道で成功を収めています。松下さんは俳優として、中元寺さんはイラストレーターとして。

異なる分野ではありますが、芸術という共通の土台の上で、それぞれの花を咲かせているのです。

高校時代からの友情は、今も続いているはずです。互いの活躍を喜び、時には刺激し合い、支え合う関係。そんな友人の存在は、松下さんにとって大きな財産となっているでしょう。

まとめ

松下洸平さんの出身高校は、東京都立片倉高校の造形美術コースでした。母親が画家という環境で育ち、幼少期から油絵に親しんだ松下さんは、高校では本格的に画家を目指していました。

毎日2〜4時間の美術授業を受け、老人ホームで絵を教えるボランティア活動も行うなど、真剣に美術に取り組んでいました。

一方で、松下さんは友人とヒップホップダンス同好会を設立し、新入生の前でパフォーマンスを披露したところ女子80人が入部するという「最大のモテ期」も経験しました。

厳しい練習を続けた結果、後輩の代では全国大会で2位になるなど、本格的なダンスサークルに成長させました。

高校3年生の時、映画「天使にラブソングを2」に感動した松下さんは、突然歌手を志すことになります。美術大学進学を予定していたため母親は猛反対しましたが、最終的には息子の夢を受け入れました。

高校卒業後は東京ミュージックアンドメディアアーツ尚美のヴォーカル学科に進学し、作詞・作曲も学びました。

専門学校卒業後は「ペインティング・シンガーソングライター」として、絵を描きながら歌うという独自のスタイルで活動を開始しましたが、音楽だけで生計を立てることは難しく、2010年から俳優業にシフトしました。

2019年のNHK朝ドラ「スカーレット」でヒロインの相手役に抜擢されたことでブレイクし、現在は実力派俳優として多方面で活躍しています。

俳優業の傍ら、音楽活動も「ライフワーク」として継続しており、2025年7月には一般女性と結婚しました。

高校時代の美術・ダンス・音楽の経験すべてが、現在の俳優・松下洸平を作り上げています。画家を目指した青春、歌手への転身、そして俳優としての成功。

その道のりは決して平坦ではありませんでしたが、母親への恩返しという思いを胸に、松下さんは自分の道を切り開いてきたのです。

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