新木優子の高校は神奈川県立霧が丘高校!オーディション100本全落ちから這い上がった努力の日々

女優・ファッションモデルとして活躍する新木優子さん。「non-no」の専属モデルや「ゼクシィガール」として人気を博し、現在は数々の話題作に出演する実力派女優として知られています。

しかし高校時代の新木さんは、オーディションを100本受けて全て不合格という挫折を経験していました。

本記事では、新木優子さんの出身高校である神奈川県立霧が丘高校での学生生活、ハンドボール部マネージャーとしての経験、そしてオーディション全落ちという逆境からどう立ち上がったのかを詳しく解説します。

新木優子の学歴と東京都板橋区出身としてのプロフィール

新木優子さんは1993年12月15日、東京都板橋区で生まれました。本名は石井優子で、愛称は「ゆんぴょ」です。

身長165cm、血液型A型で、現在は女優、ファッションモデルとして活動しています。所属事務所はスターダストプロモーションで、趣味は読書、特技はユーフォニアムとトランペットです。

家族構成

家族構成は両親と兄、妹の5人家族です。新木さんは家族についてほとんど語ることがありませんが、インターネット上には父親は大学教授という情報もあります。子供の頃は髪型もショートカットで、木登りが大好きな活発な少女でした。ただし子供の頃から虫は苦手だったそうです。

新木優子の学歴

新木さんの学歴は、出身小学校は横浜市内の公立校のようですが校名は不明です。

出身中学校の校区から考えると、横浜市立都田小学校、横浜市立都田西小学校、横浜市立川和東小学校のいずれかの可能性が高いとされています。

ただし出身は東京板橋区で横浜市内に転居した時期が不明なことから、板橋区内の小学校に通学した可能性もあります。

出身中学校は横浜市立都田中学校、出身高校は神奈川県立霧が丘高等学校です。偏差値は48でやや容易なレベルの公立高校でした。

高校卒業後は、フェリス女学院大学の文学部英語英文学科に進学し、2016年3月に卒業しています。

小学校5年生での原宿スカウトと芸能界入り

新木優子さんが芸能界に入ったきっかけは、小学校5年生の時にさかのぼります。親戚のおじさんに連れて行ってもらった原宿の竹下通りでスカウトされたのです。

小学生ながら、まだ若干10歳という年齢で芸能界に足を踏み入れるという決断は、並大抵の勇気ではなかったはずです。

当時の新木さんは「天才てれびくん」を見ていたことから芸能界に興味があり、「自分でもできるかもしれない」と思って芸能事務所入りを決めました。

小さい頃から女優に憧れており、小学校6年生の時の卒業文集には夢は女優と書いています。この純粋な夢が、後の新木さんのキャリアの原点となりました。

小学校時代の新木さんは、子供服のカタログや広告のモデルなどを務めていました。

これが新木さんの芸能界での初仕事で、芸能界でのスタートを切ったのです。子供の頃から芸能活動を始めることで、表現することの楽しさや厳しさを早くから学ぶことができたのでしょう。

横浜市立都田中学校時代の吹奏楽部とももクロとのレッスン

中学校は横浜市立都田(つだ)中学校に進学しました。新木さんは中学生の頃には既に芸能活動を開始していましたが、学校では吹奏楽部に所属していました。

吹奏楽部ではトランペットを担当しており、そのため中学時代もかなり腹筋を鍛えたそうです。

トランペットは腹式呼吸が重要な楽器で、この経験が後の女優としての発声や呼吸法にも役立っているかもしれません。

中学時代の新木さんは、平日は部活動に打ち込んで、週末は事務所のレッスンに励むという生活を送っていました。学業と芸能活動の両立は簡単ではありませんでしたが、新木さんは真面目に両方に取り組んでいたのです。

レッスンの同期はももクロだった

そして注目すべきは、当時のレッスンでももいろクローバーZのメンバーたちと一緒に受けていたことです。

ももクロが国民的アイドルグループになる前の路上ライブ時代から、新木さんは彼女たちと一緒にレッスンを受けており、当時から仲良しでした。

また当時ももクロに在籍して後にグループを卒業した早見あかりさんとも親交があります。

特に当時の新木さんはダンスを苦手としていましたが、玉井詩織さんには個人レッスンをつけてもらい、一緒に帰るほどの仲でした。

もちろん新木さんは中学時代から「ももいろクローバーZ」の大ファンで、「路上ライブ時代からのモモノフです」と明言しています。

この時期に培った友情や芸能界での人脈が、後の新木さんを支える大きな力となったのでしょう。

中学校時代の恋愛エピソード

新木さんは中学時代、同じ人に3回告白して3回フラれるというエピソードも残っています。諦めずに素直な気持ちを伝え続ける姿勢には、純粋さと誠実さが表れています。

最後は高校入学直前に告白して、見事にフラれてしまいましたが、この一途で素直な性格が新木さんの魅力の一つなのでしょう。

女優としての初作品

女優としては、中学2年生の時に森山直太朗さんの「太陽のにほい」のプロモーションビデオに出演したのが最初の仕事でした。

そして中学3年生の時には、東京芸術大学大学院映像研究科が制作した「錨を投げろ」という自主製作映画に主演しています。

ただしこの映画は劇場公開映画ではなく、大学院生たちが製作した作品だったため、当時はマスコミにはほとんど取り上げられることはありませんでした。

そのため中学時代の新木さんは、ほとんど無名の存在だったのです。

神奈川県立霧が丘高校への進学と「九段中等教育学校」との誤解

高校は神奈川県立霧が丘高等学校に進学しました。この高校は1975年開校の県立校で、部活動が盛んでバスケットボール部などが強豪として知られています。

偏差値は48でやや容易なレベルですが、運動部・文化部ともに活発に活動しており、多くの生徒が部活動に打ち込んでいる学校です。

興味深いのは、新木さんの出身高校については長年誤解がありました。当初、東京都の九段中等教育学校(偏差値63)の出身と思われていたのです。

九段中等教育学校は千代田区にある中高一貫校で、偏差値も高い進学校として知られています。なぜこのような誤解が生じたのでしょうか。

その理由は明確には分かりませんが、新木さんが出身高校を公表していなかったことや、東京都出身であることから都内の高校に通っていると推測されたこと、そして九段中等教育学校のような進学校のイメージが新木さんの知的な雰囲気と合致したことなどが考えられます。

しかし高校卒業の際にSNSに投稿した制服や卒業式の日付などから、霧が丘高校の出身者であることが判明しました。

新木さんが着ていた制服が霧が丘高校のものと一致し、また卒業式の日付も同校の日程と合致していたため、出身高校が特定されたのです。

この誤解は、新木さんが自ら出身校を明かさなかったことも一因でしょう。

芸能人の中には、プライバシーや学校への配慮から出身校を公表しない人も多くいます。新木さんもそのような配慮をしていた可能性があります。

高校時代のハンドボール部マネージャーと「今しかできないこと」への挑戦

新木さんは仕事もあったことから、当初は帰宅部で部活動などはおこなっていませんでした。しかし高校2年生の頃から、ある思いが芽生えます。

「今しかできないことがしたい」という気持ちです。この思いから、新木さんはハンドボール部のマネージャーを務めることを決めました。

高校時代のハンドボール部のマネージャーについて、新木さんは高校生新聞オンラインのインタビューで次のように語っています。

「ハンドボール部のマネジャーをしていました。練習でのボール拾いや、(引退前の)最後の試合の光景を思い出します。当時、一緒にマネジャーをしていた同級生とは今も良い関係を続けているんですよ。マネジャーをすることで、誰かを一生懸命に応援する、笑顔にすることの大切さを学びました。今の私の仕事は、本当にサポートしてもらうことが多いんです。支える側の気持ちを常に忘れないでいられるのも、高校時代の経験があったからこそだと思います」。

この言葉には、新木さんの人間性がよく表れています。女優という仕事は、多くのスタッフに支えられて成り立つ職業です。

高校時代にマネージャーとして選手を支える経験をしたことで、支えてくれる人への感謝の気持ちや、チームワークの大切さを学んだのでしょう。

また一緒にマネージャーをしていた同級生と今も良い関係を続けているというエピソードからは、新木さんが人間関係を大切にする人柄であることが分かります。高校時代の友人との絆が、現在も続いているのです。

高校時代の読書習慣とオシャレへの目覚め

新木さんは意外にも、高校時代にオシャレに目覚めたことをインタビューで話しています。

現在はファッションモデルとしても活躍し、「non-no」の専属モデルとして人気を博している新木さんですが、オシャレに興味を持ち始めたのは高校時代だったのです。

現在でも抜群のプロポーションを誇る新木さんですが、高校時代は毎日腹筋100回をしてプロポーションの維持に努めていました。

中学時代に吹奏楽部でトランペットを担当して腹筋を鍛えた経験が、この習慣につながっているのかもしれません。

女優やモデルとして活躍するためには、日々の地道な努力が不可欠であることを、新木さんは高校時代から理解していたのでしょう。

読書が好きな高校時代

新木優子の高校は神奈川県立霧が丘高校!オーディション100本全落ちから這い上がった努力の日々

読書好きで知られる新木さんですが、高校時代からよく図書室に通っており、休み時間に読書している生徒だったとインタビューで述べています。

好きなジャンルはミステリーや学園もの、ファンタジーで、辻村深月さんが一番好きな作家である他、宮部みゆきさんも大好きとのこと。

この読書習慣は、女優としての表現力や感性を磨く上で非常に重要だったと考えられます。

様々な物語を読むことで、登場人物の心情を理解する力や、想像力が養われたのでしょう。また辻村深月さんや宮部みゆきさんの作品は、人間の心理を深く描いた作品が多いことで知られています。

これらの作品を読むことで、新木さんは人間の複雑な感情や心の動きを学んだのかもしれません。

さらに新木さんは、高校時代に一番結果が出た勉強法はコツコツする方法と述べており、地道に努力をするタイプだったようです。

この姿勢は、後のオーディション全落ちという逆境を乗り越える力にもつながっていきます。

オーディション100本全落ちという試練と担任の先生の助言

高校時代の新木さんにとって、最も大きな試練となったのが、オーディションを100本受けて全て不合格だったという経験です。

新木さん自身、「とても恥ずかしく、悔しかった」と語っています。それでも諦めずに努力を続けた結果、少しずつ仕事が増えていったそうです。

小学校5年生から芸能界に入り、中学時代も活動を続けてきた新木さんにとって、高校時代のオーディション全落ちは大きな挫折だったはずです。

周りの同世代の芸能人たちが次々とブレイクしていく中、自分だけが結果を出せないという焦りや劣等感は、計り知れないものがあったでしょう。

新木さんは高校時代、かなり多くのオーディションを受けていましたが、不合格の日々が続いていました。

そのため高校時代も売れておらず、さほど多くの作品に出演していません。目立ったところは高校3年生の時に出演した深夜ドラマの「ドラゴン青年団」くらいです。

芸能界で生きていく覚悟

新木優子の高校は神奈川県立霧が丘高校!オーディション100本全落ちから這い上がった努力の日々

そのため新木さんは高校時代、女優としては出演作に恵まれておらず、また現在よりも意識が高くなかったとも述べています。

「その頃も一生懸命だったけど、たくさんお仕事があったわけでもないですし、学生との二足のわらじでどこか部活のような感覚で、ただ楽しんでお仕事をしている感覚でした」とNumero TOKYOのインタビューで語っています。

しかしそんな中でも、高校を卒業する直前に迷いながらも芸能界で生きていく決意をしたことを明らかにしています。

「『女優』というより、この世界で生きていこうと決めたのは高校卒業の少し前でした。(中略)でも、進学しても学業と仕事が両立できるのか不安もあって、すごく迷っていたんです」とNumero TOKYOで語っています。そのためこのあたりから意識も変わったと続けています。

新木優子を支えた恩師の助言

高校時代の新木さんを支えたのが、担任の先生の存在でした。高校2年生2月に出演した「NTTdocomo」のCMで少しだけ注目された時期があり、新木さんは仕事が増えると転校しなければならないと考えるようになってしまい、それが心配のタネでもありました。

その際に担任の先生から受けた助言が、新木さんの人生を変えます。「あなたが悩んでいるのは『マイケル・ジャクソンと付き合えたらどうしよう』レベルの悩みなんだよ」と言われたのです。これを聞いた新木さんは、気持ちが楽になったそうです。

この助言の意味は深いものがあります。つまり、まだ起こってもいない未来のことを心配して、今を楽しめないのは本末転倒だということです。仕事が増えるかどうかも分からないのに、その心配で頭がいっぱいになっているのは、マイケル・ジャクソンと付き合える可能性がほぼゼロなのに「もし付き合えたらどうしよう」と悩んでいるのと同じくらい意味のないことだ、と先生は教えてくれたのです。

この助言によって、新木さんは目の前のことに集中できるようになったのでしょう。オーディションに落ち続けても、転校の心配をするのではなく、今できることを精一杯やろうという気持ちに切り替えられたのです。

大学進学の決断と「4年間がリミット」という覚悟

高校を卒業した新木さんは、フェリス女学院大学の文学部英語英文学科に進学します。

大学に進学した経緯について、新木さんはマイナビ学生の窓口のインタビューで次のように話しています。

「ただ単に高校を卒業して女優業を続けていくよりも、大学生として二足のわらじを履いて、どちらもがんばってみたほうがいいと感じて進学を決意しました。大学時代の4年の間にお仕事がうまくいけば、今後はそれを本格的に職業としていけるだろうし、もしそこでダメになったとしても、他になにかできることを見つけられるんじゃないかって思ったんです」。

この言葉からは、新木さんの現実的な判断力と決断力が伺えます。高校時代にオーディション100本全落ちという挫折を経験した新木さんは、女優一本で生きていくことのリスクも理解していたのでしょう。

大学に進学することで、もし女優の道がうまくいかなかった場合の選択肢を残しておきたいという思いがあったのです。

また英文学を専攻した理由については次のように話しています。「そこにきて『じゃあ、何学科にしよう?』って悩んで、いろいろ考えました。

せっかくこのお仕事を続けながら学生をやるって決めたことだし、仕事に活かせることを学ぼうと、英語を専攻することに決めました。英語ならできてソンはないなと思って」。

この選択も非常に実用的です。女優として活動する上で、英語力があれば海外の作品に出演する機会も広がります。

また英文学を学ぶことで、海外の文学作品に触れ、表現の幅を広げることもできます。新木さんは、大学での学びを将来の仕事に活かそうという明確な目的を持って進学したのです。

大学4年間をリミットにする

そして重要なのは、新木さんが「大学4年間をリミット」と考えていたことです。日本経済新聞のインタビューで次のように述べています。

「高校から大学に入る頃にかけて、演技のお仕事をしたいけど、なかなかオーディションに受からなくて、うまくいかない日々が続いていた時期もありました。お仕事をやめたいと思ったことが一度もないわけではないんですけど、そう思いかけたときに、グッと踏ん張ってきました。大学に入るとき、大学に通っている4年間をリミットに結果が出せなかったら、そのときはやめようと考えていました」。

この覚悟が、大学時代の新木さんを支えることになります。

4年間で結果を出す、というタイムリミットを自分に課すことで、新木さんは背水の陣で芸能活動に取り組んだのです。

大学3年生での「non-no」専属モデル抜擢という転機

大学時代の新木さんは、仕事の傍ら学業も頑張りました。「みんなと普通に授業を受けてました。

たまに友だちにノートを貸してもらったり、苦労もありましたけど、なるべくレポートで済む授業を取るとか、工夫をしつつ」「テスト時期は大変だったり、寝ないでレポートを書いたりもしましたけど、終わってみれば『もっと頑張れたかな』と思うので」とHUSTLE PRESSで語っています。

授業にはきちんと出席していましたが、テストや発表の日に仕事が重なり、単位を落としてしまうこともあったそうです。

頑張っても認められない悔しさも感じながら、それでも諦めずに両立を続けた努力家なのです。友人たちと学食や芝生で食事をする時間をとても大切にしていたそうで、何気ない日常のひとときが、今ではかけがえのない思い出になっているとか。

大きな転機となった専属モデル

新木優子の高校は神奈川県立霧が丘高校!オーディション100本全落ちから這い上がった努力の日々

そして大学3年生の時、新木さんに大きな転機が訪れます。ファッション誌「non-no」の専属モデルとなったことで、大きな注目を集めたのです。

ちなみに当時の「non-no」の専属モデルは、乃木坂46の西野七瀬さんや欅坂46の渡邉理佐さん、女優の馬場ふみかさんや新川優愛さん、タレントの佐藤エリさんら錚々なメンバーが務めていますが、新木さんは常に上位の人気を誇って表紙を務めることも少なくありませんでした。

また大学4年生の時には、若手女性タレントの登竜門でもある「ゼクシィ」のCMキャラクター(8代目ゼクシィガール)にも起用されています。

過去には加藤ローサさん、倉科カナさん、松井愛莉さん、広瀬すずさん、吉岡里帆さん、佐久間由衣さんなどが「ゼクシィガール」を務めており、これをきっかけにブレイクした女優も多くいます。

高校時代にオーディション100本全落ちという挫折を経験し、大学4年間をリミットとして背水の陣で臨んだ新木さんの努力が、ついに実を結んだ瞬間でした。大学3年生以降は、それまでと比較できないほどのテレビドラマや映画に起用されることになります。

そして大学4年生だった1月に公開された映画「風のたより」では、デビュー作以来実に8年ぶりに映画に主演しています(劇場公演用映画は初主演)。中学3年生の自主製作映画以来の主演でした。

まとめ

新木さんは大学時代の4年間を次のように総括しています。「大学時代に、すごく人間性が作られたなって思います。大学って、地域を越えていろんな人が集まる場所で、そこに身を置くことで本当にいろんなことがわかってきたというか。授業を受けたり、人と話したりしてコミュニケーションをとる中で『あ、こういう考え方もあるんだ』とか『自分のこういうところは直そう』とか、気づきが多かったですね」とマイナビ学生の窓口で語っています。

高校時代のオーディション全落ちという挫折、大学での学びと芸能活動の両立、そして「non-no」専属モデルという転機。これらすべての経験が、現在の新木優子さんを作り上げたのです。

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