「どうにもとまらない」や「狙いうち」などの大ヒット曲で知られる山本リンダさん。1960年代から現在まで、半世紀以上にわたって芸能界の第一線で活躍し続けています。70歳を超えた今でも抜群のスタイルをキープし、そのパワフルなパフォーマンスで多くのファンを魅了しています。
そんな山本リンダさんですが、実は高校を中退しており、大学にも進学していません。しかし学歴がなくても、才能と努力で成功を掴み取った彼女の人生は、多くの人に勇気を与えています。この記事では、山本リンダさんの学歴を詳しく解説するとともに、学生時代のエピソードや、ハーフとして受けた差別、そして母親との深い絆についても紐解いていきます。
山本リンダのプロフィールと生い立ち
ゴスバージョンのnaoさん、誰かに似てると思って色々検索したら若い頃の山本リンダさんやった。雰囲気がね。決して古めかしいとかいうのではなく何かしら古き良き時代の魅力を纏ってるよね。不思議な人。 pic.twitter.com/JInWR8qSXM
— にこDOLLS (@non6853) December 7, 2019
まず、山本リンダさんの基本プロフィールと生い立ちを確認しておきましょう。彼女の学歴を理解する上で、育った環境と時代背景を知ることは非常に重要です。
山本リンダさんは1951年3月4日、福岡県小倉市(現在の北九州市)で生まれました。父親はアメリカ人の軍人、母親は日本人の百合子さんというハーフです。身長168cm、血液型はO型。本名は山本あつ子(結婚前)といいます。
母子家庭の環境

しかし山本さんが1歳の時、父親は朝鮮戦争で戦死してしまいます。その後、母親の百合子さんが女手ひとつで娘を育てることになりました。4歳の時に、母親の決断で福岡県小倉市から神奈川県横浜市に転居します。元ダンサーだった母親は、内職や魚市場で働きながら、懸命に家計を支えました。
この貧しい家庭環境が、後に山本さんを芸能界入りへと駆り立てる大きな動機となります。また、戦後間もない1950年代から1960年代の日本において、ハーフであることは大きなハンディキャップでした。この時代背景が、山本さんの学生時代に暗い影を落とすことになるのです。
山本リンダの出身小学校は横浜市立神橋小学校

山本リンダさんが通っていた小学校は、神奈川県横浜市内の公立校である横浜市立神橋小学校です。1957年4月に入学し、1963年3月に卒業しています。
おてんばだけどいじめに遭っていた小学校時代
小学校時代の山本さんは、活発でおてんばな少女でした。歌が好きで、母親が買ってきたレコードに合わせて歌ったり踊ったりするのが大好きな子どもだったそうです。この歌への情熱が、後の歌手デビューにつながっていきます。
しかし、山本さんの小学校時代は決して楽しいものばかりではありませんでした。ハーフという理由で、たびたびいじめに遭っていたのです。1950年代から1960年代の日本は、まだ外国人や混血に対する偏見が強く残っていた時代でした。特に戦後の混乱期に生まれたハーフの子どもたちは、「混血児」と呼ばれて差別されることが多かったのです。
幼少期の深い傷
目鼻立ちのはっきりした顔立ち、日本人離れしたプロポーション。これらは後に芸能界で大きな武器となりますが、小学校時代の山本さんにとっては、いじめの対象となる特徴でした。周囲の子どもたちと「違う」ことが、当時の日本社会では受け入れられにくかったのです。
こうした辛い経験は、山本さんの心に深い傷を残したはずです。しかし同時に、逆境に負けない強さと、差別に立ち向かう精神力も育てました。この強さが、後に何度も訪れる芸能界での低迷期を乗り越える原動力となります。
母親を楽にしたい一心で芸能界へ
小学校6年生の時、山本さんの人生を変える出来事が起こります。ファッション誌「装苑」のオーディションに応募したのです。しかしこれは、芸能界に憧れてのことではありませんでした。
家が非常に貧しく、母親が朝から晩まで働いている姿を見ていた山本さん。「少しでも母親を楽にしてあげたい」という一心で、お金を稼ぐ方法を探していたのです。11歳か12歳の少女が、家計を心配して自らオーディションに応募する。この行動力と母親への愛情の深さには、胸を打たれるものがあります。
このオーディションへの応募が、山本リンダという稀代のエンターテイナーが誕生するきっかけとなりました。小学校時代の貧困といじめという二つの辛い経験が、彼女を芸能界へと導いたのです。
山本リンダの出身中学校は横浜市立六角橋中学校

山本リンダさんは1963年4月、横浜市立六角橋中学校に入学し、1966年3月に卒業しています。この中学校時代が、山本さんの芸能人生のスタート地点となりました。
中学1年生でファッションモデルとしてデビュー
小学校6年生の時に受けた「装苑」のオーディションに合格した山本さんは、中学1年生の時にファッションモデルとしてデビューします。168cmという当時としては抜群の身長、ハーフならではの目鼻立ちの整った顔立ち、そして大人びたプロポーション。これらが評価され、すぐに人気ファッションモデルとなりました。
1960年代前半は、日本がようやく戦後の混乱から抜け出し、高度経済成長期に入った頃です。ファッションへの関心も高まり、モデルという職業も注目されるようになってきた時期でした。そんな中、13歳の少女モデルが登場したことは、業界でも話題となったでしょう。
小学校時代はいじめの対象だった「ハーフ」という特徴が、モデルとしては大きな武器となりました。皮肉なことに、周囲から「違う」と差別された容姿が、芸能界では「個性的で魅力的」と評価されたのです。この経験は、山本さんに自信を与えたに違いありません。
母親の厳しくも愛情深い言葉

人気モデルとなり、お金も稼げるようになった山本さん。しかし母親の百合子さんは、娘が調子に乗ることを許しませんでした。「ちょっと天狗になっている。そんな人間になるなら、すぐに辞めてくれ」と厳しく叱ったのです。
この言葉は、山本さんの心に深く刻まれました。成功しても謙虚であること、努力を怠らないこと。母親が教えてくれたこの姿勢が、山本さんが長年にわたって芸能界で活躍し続けられた秘訣となります。
貧しい生活の中で必死に働きながら娘を育てた母親。その母親が、娘の成功を素直に喜ぶのではなく、むしろ戒めの言葉をかける。これは、母親の深い愛情と、娘を本当に立派な人間に育てたいという強い思いの表れでした。山本さんも、この母親の気持ちをしっかりと受け止め、生涯の教訓としたのです。
帰宅部で芸能活動に専念
中学時代の山本さんは帰宅部で、部活動はしていませんでした。ファッションモデルとしての仕事が入るようになり、放課後は撮影や打ち合わせに時間を使っていたためです。
13歳で仕事をするということは、決して簡単なことではありません。学校の授業を受けた後、撮影現場に向かう。大人のスタッフに囲まれて仕事をし、プロとしての振る舞いを求められる。同年代の友達が部活動や遊びに夢中になっている中、山本さんは大人の世界で働いていたのです。
この経験は、山本さんを急速に成長させました。中学生でありながら、プロ意識を持って仕事に取り組む。責任感を持ち、約束を守る。こうした姿勢は、この時期に身につけたものでしょう。
ちなみに、横浜市立六角橋中学校の卒業生には、俳優のムロツヨシさんやフィギュアスケート選手の鍵山優真さんなどがいます。
山本リンダの出身高校は横浜市立港高校

山本リンダさんは1966年4月、横浜市立港高校(現在の横浜市立みなと総合高校)に入学しました。しかし、この高校は最後まで通うことはありませんでした。
横浜市立港高校の偏差値と特徴
山本さんが在籍していた当時の横浜市立港高校の偏差値は不明ですが、現在の横浜市立みなと総合高校の偏差値は55程度とされています。当時も同程度だったとすれば、中程度のレベルの高校だったと考えられます。ただし、記事1では「あまりレベルは高くはなかった」と記述されているため、当時は現在よりも偏差値が低かった可能性もあります。
この高校は2002年に再編統合され、現在は横浜市立みなと総合高校となっています。卒業生にはミュージシャンの横山剣さんなどがいます。
山本さんは高校でも帰宅部で、部活動には参加していませんでした。すでに芸能活動が本格化しており、学業との両立だけで精一杯だったのでしょう。
高校1年生で「こまっちゃうナ」が大ヒット
1966年山本リンダのデビューシングル[こまっちゃうナ]が大ヒットしました。舌っ足らずの可愛い子ちゃん歌手としてデビューした山本さんは、そのモデルのようなルックスや甘い歌声から大人気になり、こまっちゃうナは流行語化し、70万枚を超える売上げを記録し同曲で紅白歌合戦に初出場しました。 pic.twitter.com/mVmkhoRWj1
— 懐かしくん (@Natsukashikun) October 24, 2024
1966年、高校1年生だった山本さんに、人生を変える大きなチャンスが訪れます。「こまっちゃうナ」で歌手デビューすることになったのです。
この曲は発売されるやいなや大ヒットとなりました。15歳の高校生歌手が、いきなりトップスターの仲間入りを果たしたのです。そしてなんと、デビュー年の1966年末には、紅白歌合戦に初出場まで果たしています。高校1年生で紅白に出場するというのは、当時としても異例の快挙でした。
当時は、イギリス人ファッションモデルのツイッギーさんが世界的に大ブームを巻き起こしていた時代です。ミニスカートとスレンダーなスタイルで一世を風靡したツイッギーさんが来日した際、山本さんは共演を果たすほどの人気を獲得していました。ハーフという外見的特徴が、国際的なファッションアイコンと並んでも遜色ない存在として評価されたのです。
4歳年上の大学生からプロポーズされた高校時代
芸能界で輝かしい活躍を見せる一方、プライベートでも恋愛を経験していた山本さん。高校1年生の時、近所に住んでいた4歳年上の大学生と交際していました。そしてなんと、この大学生からプロポーズまでされたというエピソードが残っています。
15歳か16歳でプロポーズを受けるというのは、現代ではあまり考えられないことですが、当時は結婚年齢も若く、珍しいことではありませんでした。また、山本さんはすでに人気歌手として活躍しており、精神的にも経済的にも同年代の少女よりはるかに大人だったのでしょう。
このプロポーズを山本さんがどう受け止め、どのような返答をしたのかは明らかにされていませんが、結果的には結婚せず、芸能活動を続ける道を選びました。
デビュー後の低迷と母親の支え
山本リンダ 帰らなくちゃ
B面は ワンダフル トウキョウビッグバンド編曲でいい、面白い曲でした。
うまく言えないけど、、地下室のメロディみたいなかんじ。歌詞はこまっちゃうな路線のモテモテ女子のお悩み。ってかんじ。 pic.twitter.com/Y4GObyADoR
— 斉藤雅之 (@RpaWP7fmJY2OaKG) August 17, 2023
「こまっちゃうナ」が大ヒットし、順風満帆に見えた山本さんのキャリアでしたが、実はその後ヒットに恵まれず、低迷期に入ってしまいます。一発屋と言われ、次のヒット曲がなかなか出せない状況が続きました。
10代後半という多感な時期に、芸能界という厳しい世界で苦しんでいた山本さん。しかし彼女は、周囲には決して弱音を吐きませんでした。強気の姿勢を崩さず、プロとして振る舞い続けたのです。
母親のこぼした愚痴
ただ一人、母親にだけは愚痴をこぼしていたそうです。「次がヒットしない」「このままでは終わってしまう」という不安や焦り。娘の苦しみを知った母親は、いつも励ましてくれました。「あなたは必ず成功する」「諦めないで頑張りなさい」と。
この母親の存在が、山本さんが芸能界を辞めずに踏ん張り続けられた最大の理由でした。幼い頃から女手ひとつで育ててくれた母親。その母親を楽にしたいという思いが、山本さんの原動力だったのです。
芸能活動多忙により高校を中退
「こまっちゃうナ」のヒット後、山本さんは歌手としてだけでなく、女優としても活動するようになりました。テレビドラマや映画への出演が増え、スケジュールは埋まっていく一方でした。
高校に通学する時間を確保することが、次第に困難になっていきました。撮影やレコーディング、テレビ出演などで、学校を休むことが多くなったのです。出席日数が足りず、このままでは進級も卒業も難しい状況に陥りました。
山本さんは、学業と芸能活動のどちらを選ぶか、重大な決断を迫られました。そして彼女が選んだのは、芸能活動を続ける道でした。正確な時期は明らかにされていませんが、高校在学中に中退しています。おそらく高校2年生か3年生の頃だったと推測されます。
強い決意・中退
当時15歳や16歳で高校を中退するというのは、現代よりも比較的よくあることでした。特に芸能人の場合、仕事が忙しくなると学業との両立が困難になり、中退を選択するケースは珍しくありませんでした。
しかし、この選択は決して軽い気持ちでしたものではなかったはずです。高校を卒業できないということは、学歴が中卒になるということです。もし芸能界で成功できなければ、学歴がないことがハンディキャップになる可能性もありました。それでも山本さんは、芸能界で成功するという強い決意を持って、中退という選択をしたのです。
山本リンダは大学に進学していない

高校を中退した山本リンダさんは、大学には進学していません。高校卒業資格がないため、大学受験の資格もありませんでした。
芸能活動に専念する日々
高校中退後、山本さんは芸能活動に専念します。歌手として、女優として、そしてタレントとして、様々な仕事に挑戦しました。
20歳だった1971年には、特撮ドラマ「仮面ライダー」に出演しています。同年7月から12月まで、レギュラー出演していました。当時「仮面ライダー」は子どもたちに絶大な人気を誇っており、山本さんの知名度はさらに上がりました。
しかし歌手としては、依然として低迷期が続いていました。「こまっちゃうナ」のような大ヒットがなかなか出ず、焦りと不安の日々だったことでしょう。
21歳で「どうにもとまらない」が爆発的ヒット
山本リンダ – どうにも とまらない [1972.6.5]
作詞:阿久悠 作曲・編曲:都倉俊一
(最高3位 / 38.0万枚 / 1972年 総合23位)pic.twitter.com/mvbLknvIKt— 70’s Japanese Music File (@70sJMF) April 29, 2025
そして1972年、21歳の時に転機が訪れます。20枚目のシングル「どうにもとまらない」が爆発的な大ヒットとなったのです。
この曲は、山本さんの代表曲として現在でも広く知られています。情熱的な歌詞とパワフルなボーカル、そして印象的な振り付け。「どうにもとまらない」は、山本リンダという歌手の真価を世に知らしめた名曲となりました。
デビューから6年、20枚目のシングルでようやく大ヒット。この成功は、決して偶然ではありませんでした。低迷期も諦めず、歌い続け、努力し続けた結果が、ついに実を結んだのです。母親が言い続けてくれた「諦めないで」という言葉を、山本さんは忠実に守り続けたのです。
「狙いうち」のヒットと母親の死の悲劇
山本リンダ – 狙いうち [1973.2.25]
作詞:阿久悠 作曲・編曲:都倉俊一
(最高14位 / 17.6万枚 / 1973年 総合81位)pic.twitter.com/qiOxZZeemq— 70’s Japanese Music File (@70sJMF) March 31, 2025
1973年、「狙いうち」がリリースされ、これまた大ヒットとなりました。「狙い撃ち」の振り付けは社会現象となり、山本リンダは時代を代表する歌手の一人となりました。
しかし、この成功の陰に、大きな悲劇がありました。「狙いうち」が大ヒットしたその時期に、母親の百合子さんが事故で亡くなってしまったのです。まだ50歳という若さでした。
幼い頃から女手ひとつで育ててくれた母親。貧しい中でも、決して弱音を吐かず、娘のために働き続けてくれた母親。芸能界で苦しんでいた時も、いつも励ましてくれた母親。その母親を、ようやく楽にしてあげられると思った矢先の出来事でした。
皮肉な運命
「母親を楽にしてあげたい」という思いで芸能界に入り、苦しい低迷期も耐え抜いてきた山本さん。しかし、ようやく成功を掴んだ時には、母親はもうこの世にいませんでした。この皮肉な運命は、山本さんに計り知れない悲しみを与えたことでしょう。
母親の死は、山本さんの心に深い傷を残しました。しかし同時に、母親の教えを胸に、さらに努力し続けようという決意も新たにしたはずです。母親が見守ってくれているからこそ、絶対に諦めない。そんな思いが、その後の山本さんの長い芸能人生を支えていくことになります。
学歴がなくても成功できることを証明した山本リンダ

山本リンダさんの学歴は、高校中退で最終学歴は中卒です。大学はもちろん、高校も卒業していません。現代の価値観で言えば、決して高い学歴とは言えないでしょう。
しかし、山本さんの人生は、学歴がすべてではないことを雄弁に物語っています。才能、努力、そして決して諦めない強い心。これらがあれば、学歴がなくても成功できる。山本さんは、そのことを自らの人生で証明してみせたのです。
1990年代に「ちびまる子ちゃん」で再ブレイク
1970年代に「どうにもとまらない」「狙いうち」で大成功を収めた山本さんですが、1980年代には再び低迷期を迎えます。時代の流行も変わり、新しいアーティストたちが台頭する中、山本さんの人気は下降していきました。
しかし1990年、思わぬ形で再ブレイクのチャンスが訪れます。テレビアニメ「ちびまる子ちゃん」のエンディングテーマに「おどるポンポコリン」が起用され、この曲が大ヒットしたのです。さらに作中でも「狙いうち」が使用され、山本リンダの名前が再び脚光を浴びることになりました。
これで山本さんは、二度の低迷期を経験しながら、その都度不死鳥のように復活したことになります。普通の人なら一度の低迷期で心が折れてしまうところを、山本さんは何度でも立ち上がりました。この精神力の強さは、幼少期に経験したいじめや貧困、そして母親から学んだ「諦めない心」が育てたものでしょう。
50歳で結婚、現在も現役で活躍
2001年、50歳になった山本さんは、常葉大学教授の稲葉光彦さんと結婚しました。長年独身を貫いてきた山本さんが、ようやく人生のパートナーを見つけたのです。
そして現在、70歳を超えた山本さんは、今でも現役の歌手・タレントとして活躍を続けています。テレビ番組にも頻繁に出演し、そのパワフルなパフォーマンスと抜群のスタイルで、視聴者を驚かせ続けています。
年齢を感じさせない元気さ、前向きな姿勢、そして若々しさ。これらは、山本さんが長年培ってきた「諦めない心」と「努力を続ける姿勢」の賜物です。学歴はなくても、人生を全力で生きてきた山本さんの姿は、多くの人々に勇気と希望を与えています。
まとめ:学歴より大切なものを教えてくれる山本リンダの人生
この前田敦子ちゃんかわいいと思ったらWikiの山本リンダだった pic.twitter.com/JsY4q1putO
— むね (@munenoli) February 19, 2025
山本リンダさんの学歴をまとめると、横浜市立神橋小学校、横浜市立六角橋中学校を卒業し、横浜市立港高校に進学したものの中退、大学には進学していません。最終学歴は中卒となります。
しかし、彼女の人生は学歴以上に価値のあるものを私たちに教えてくれます。
ハーフとして受けたいじめ、極貧の家庭環境、父親の不在。こうした困難な状況の中で、「母親を楽にしてあげたい」という純粋な思いから芸能界入りを決意した11歳の少女。15歳でデビューし、いきなり大ヒットを記録するも、その後は長い低迷期を経験。それでも諦めず、努力を続けた結果、21歳で再び大成功を掴む。そして母親の教えを胸に、二度の低迷期を乗り越え、70代になった現在も第一線で活躍し続けている。
山本リンダさんの人生は、学歴がすべてではないこと、才能と努力と諦めない心があれば道は開けることを示しています。そして何より、家族への愛情が人生最大の原動力になることを教えてくれているのです。
高校を中退したことを後悔しているかどうか、山本さん本人が語ったことはありません。しかし、おそらく後悔はしていないでしょう。なぜなら、その選択があったからこそ、今の山本リンダが存在するのですから。学歴よりも大切なもの、それは自分の人生を全力で生きる姿勢なのだと、山本さんの人生は私たちに語りかけているのです。


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