俳優の寛一郎さんは、父に佐藤浩市さん、祖父に三國連太郎さんを持つ「3世俳優」として知られています。
しかし、寛一郎さんの学歴について詳しく知る人は少ないのではないでしょうか。実は寛一郎さんは、幼稚園から高校まで一貫して成城学園に通い、大学には進学していません。
本記事では、寛一郎さんが成城学園で過ごした学生時代のエピソードと、なぜ大学進学という選択肢を捨てて俳優の道を選んだのか、その経緯を詳しく解説します。
寛一郎の学歴まとめ|成城学園一筋の16年間
おーーーー!?寛一郎さんって、佐藤浩市さんの息子さんやったんや!?そういわれると似てるね!!!https://t.co/DhGTo0osne#寛一郎 #ばけばけ
— 地亜貴(c_c)/大阪市民で大阪が好き!奈良で生まれ育ったので奈良も好き!なIT屋さん (@chiaki99) October 30, 2025
幼稚園から高校まで成城学園で過ごした理由
寛一郎さんは1996年8月16日生まれで、東京都世田谷区の出身です。学歴を見ると、幼稚園から高校までの16年間を成城学園で過ごしています。
具体的には、成城学園幼稚園、成城学園初等学校、成城学園中学校、そして成城学園高等学校と、すべて成城学園の系列校に通っていました。
成城学園は東京都世田谷区に位置する私立の一貫校で、1950年に設立された歴史ある学校です。自由な校風で知られ、資産家や芸能人の子息が多く通うことでも有名です。
寛一郎さんの父親である佐藤浩市さんも俳優として第一線で活躍しており、母親は元女優の広田亜矢子さんという芸能一家に育ちました。
こうした家庭環境から、プライバシーを守りながらも比較的自由に学生生活を送れる成城学園が選ばれたのでしょう。
成城学園は一貫教育を重視しており、幼稚園から大学まで内部進学が可能です。寛一郎さんも高校卒業まではこのエスカレーター式の進学システムの中で育ちました。
しかし、高校卒業後は大学に進学せず、俳優の道を選択しています。この決断に至るまでの経緯については、後ほど詳しく解説します。
家族構成と芸能一家としての環境
寛一郎さんの家族構成は、父親の佐藤浩市さん、母親の広田亜矢子さん、そして本人の3人家族です。寛一郎さんは一人っ子として育ちました。
ただし、佐藤浩市さんには前妻との間に息子がいるため、寛一郎さんには異母兄弟がいることになります。
父親の佐藤浩市さんは1960年生まれの俳優で、数多くの映画やテレビドラマに出演し、日本アカデミー賞も受賞している実力派です。
祖父の三國連太郎さんは1923年生まれで2013年に亡くなりましたが、日本映画界を代表する名優として知られていました。母親の広田亜矢子さんは元女優で、佐藤浩市さんの2番目の妻です。
このように、寛一郎さんは「俳優一家」の環境で育ちました。しかし、後述するように、寛一郎さんは高校時代まで俳優になることを拒否し続けていました。
有名な父や祖父の存在が、逆にプレッシャーとなっていた可能性も考えられます。
寛一郎の出身高校|成城学園高等学校の偏差値と学生生活
TITFで『恒星の向こう側』を観た
寛一郎、シュッとしててカッコよかった
河瀬直美は女優のが向いてるのでは
レビューはfilmarksで改めて pic.twitter.com/M7jgWSRZNB— 山内三咲|ファッションと場作り、たまに⛷️ (@misakinha) October 30, 2025
成城学園高等学校の特徴と偏差値
寛一郎さんの出身高校は、私立の共学校である成城学園高等学校です。同校の偏差値は64で、やや難関校に位置づけられます。
寛一郎さんは2011年4月に入学し、2014年3月に卒業しています。
成城学園高等学校は1950年に開校した成城大学の系列校で、古くから自由な校風で知られています。
校則が比較的緩やかで、生徒の自主性を重んじる教育方針が特徴です。また、資産家や有名人の子息が多く通学することで知られており、芸能人の出身者も数多くいます。
主な卒業生には、女優の木村佳乃さん、タレントの山口もえさん、俳優の高嶋政伸さん、ミュージシャンの及川光博さん、シンガーソングライターの森山直太朗さんなどがいます。
このように、芸能界で活躍する卒業生が多いことも、成城学園高等学校の特徴と言えるでしょう。
高校時代は何かに没頭することがなかった

寛一郎さんの高校時代については、本人の口から語られる情報はあまり多くありません。
しかし、映画「心が叫びたがってるんだ」に出演した際のインタビューで、高校時代について興味深い発言をしています。
「僕は高校時代に、何かに没頭したことがなくて、(没頭することは)憧れだった。そういう点でもすごく演じやすかった」
この発言から、寛一郎さんは高校時代に部活動や特定の趣味に打ち込むことがなかったことが分かります。
中学時代にはバスケットボールをしていたようですが、高校では特に運動部に所属していた形跡はありません。
ただし、当時から音楽には興味を持っていたようです。別のインタビューでは「ロックが昔から好きで、洋楽邦楽問わずいろいろと聴いていた」と語っています。
音楽と映画には表現としてつながる部分があると感じており、熱い曲を聴くことが自分のエンジンになると述べています。
高校時代の寛一郎さんは、部活動に打ち込むわけでもなく、勉強に没頭するわけでもなく、どちらかと言えば普通の高校生として過ごしていたようです。
しかし、この「何かに没頭したことがない」という経験が、後に俳優として役を演じる際の共感力につながっているのかもしれません。
高校3年生で俳優になることを決意した転機
寛一郎さんの人生において、高校3年生の時期は大きな転機となりました。それまで俳優になることを拒否し続けていた寛一郎さんが、「俳優という職業と向き合う覚悟ができた」のがこの時期だったのです。
この決断には、2013年4月に亡くなった祖父の三國連太郎さんの存在が大きく影響していると考えられます。
三國連太郎さんは日本映画界を代表する名優で、その演技力は高く評価されていました。祖父の葬儀に参加し、映画関係者と接する中で、寛一郎さんは俳優という職業の意義や重みを改めて感じたのではないでしょうか。
実際、祖父の葬儀の席で映画関係者にスカウトされたことが、寛一郎さんが俳優の道を進むきっかけになったとも言われています。
それまで避けてきた俳優という職業に、ようやく正面から向き合う覚悟を決めた瞬間でした。
寛一郎さんが父親の佐藤浩市さんに俳優になることを告げた際、佐藤さんは「まあ、そうか」の一言しか返さなかったそうです。
この淡白な反応は、父親なりの息子への配慮だったのかもしれません。佐藤浩市さん自身、父親である三國連太郎さんとの確執を経験していたこともあり、息子の決断を静かに見守る姿勢を取ったと考えられます。
また、寛一郎さんは俳優デビュー後も、父親とは「暗黙の了解」の上で仕事については話すことはないと述べています。
互いにプロの俳優として、あえて距離を保つことで、それぞれの道を尊重し合っているのでしょう。
寛一郎が大学に進学しなかった理由|俳優への道を選択
寛一郎さん好きなんよなぁ〜〜
メゾングラン東京の時からなんとなく好き。
んで最近朝ドラでよくテレビ出てるから久々観たら垢抜けしすぎててズッキュン…ෆ(なんとなく萩原利久に似てる) pic.twitter.com/xJLfqtlnfV
— 白飯 (@utkr_12) October 29, 2025
成城大学への内部進学を断った決断
寛一郎さんは成城学園高等学校を卒業後、大学には進学していません。成城学園は幼稚園から大学までの一貫教育を提供しており、高校から成城大学への内部進学は、よほどのことがない限り可能です。
しかし、寛一郎さんはこの内部進学の道を選ばず、俳優になるために「退路を断った」のです。
成城大学は偏差値55前後の私立大学で、文芸学部や経済学部など幅広い学部を持っています。内部進学であれば受験のプレッシャーもなく、比較的楽に大学生活を送ることができたはずです。
それでも寛一郎さんが大学進学を選ばなかったのは、俳優として本気で活動するという強い意志の表れでした。
俳優の道を選ぶにあたって、大学という「保険」を持たないことは、ある意味で自分を追い込むことでもあります。もし俳優として成功しなければ、学歴上は高卒という状況になります。
しかし、寛一郎さんはそのリスクを承知の上で、俳優の道を選んだのです。
この決断は、父親や祖父という偉大な俳優の存在がプレッシャーになっていた可能性も示唆しています。
「3世俳優」として注目される中で、中途半端な姿勢では通用しないと感じていたのかもしれません。大学に進学せず、俳優一本に絞ることで、自分自身に覚悟を決めさせたとも言えるでしょう。
高校卒業後のロサンゼルス短期留学
高校卒業後、寛一郎さんは大学に進学する代わりに、アメリカのロサンゼルスに短期留学しています。この留学の目的は、演技を学ぶためでした。
ロサンゼルスはハリウッドを擁する映画の街であり、世界中から俳優志望者が集まる場所です。寛一郎さんはここで演技のレッスンを受け、映画製作の現場を間近で見る機会を得ました。
日本とは異なる演技スタイルや映画制作の手法に触れることで、俳優としての視野を広げることができたはずです。
この短期留学の経験は、寛一郎さんの俳優としてのキャリアにおいて重要な意味を持ちます。日本の芸能界だけでなく、世界の映画業界を意識することで、より高い目標を持つことができたのではないでしょうか。
また、英語での演技や国際的なコミュニケーション能力を磨く機会にもなりました。
ロサンゼルスでの短期留学を経て、寛一郎さんは日本に戻り、本格的に俳優活動を開始します。
自主制作映画への出演を経て、2017年に「Sexy Zone」の中島健人さんが主演した映画「心が叫びたがってるんだ」で商業映画デビューを飾ることになります。
俳優一本に絞ることで得られた覚悟と集中力
大学に進学しなかったことは、寛一郎さんにとって俳優という職業に対する覚悟を固める重要な選択でした。学生という立場を持たないことで、俳優業に100%の時間とエネルギーを注ぐことができます。
多くの若手俳優は、大学に通いながら芸能活動を行っています。
これは「保険」を持つという意味では賢明な選択ですが、同時に時間的・精神的な制約も生まれます。授業や試験、レポート作成などに時間を取られ、オーディションや現場に集中しきれない場合もあります。
寛一郎さんは大学進学を選ばなかったことで、こうした制約から解放されました。オーディションがあれば迷わず参加でき、現場での経験を最大限に積むことができます。
また、演技のレッスンや身体作り、台本の読み込みなど、俳優として必要な準備に十分な時間を使えるようになりました。
さらに、大学という「逃げ道」がないことは、自分自身に対するプレッシャーにもなります。「俳優として成功しなければならない」という切迫感が、より真剣に演技に取り組む原動力になったはずです。この覚悟と集中力が、デビュー後の活躍につながっていると考えられます。
寛一郎の出身中学校|成城学園中学校でのバスケットボール経験
こんにちは🌞
眠過ぎて休憩。まだまだ高松の余韻が。
こちらはおまけ。
商店街のブティックかな?
寛一郎さんもかっこいいなあ。
2枚目は銀行のキャラクターかな?
かわいかった。 pic.twitter.com/TEX7DPdrT0— ロンドンバー二ング (@theeiggy24) October 29, 2025
成城学園中学校の偏差値と教育方針
寛一郎さんの出身中学校は、成城学園中学校です。同校の偏差値は51〜57で、中程度の難易度の学校です。
寛一郎さんは2008年4月に入学し、2011年3月に卒業しています。
成城学園中学校は、成城学園高等学校に併設されている系列校です。一貫教育の一環として、中学から高校への内部進学がスムーズに行えるシステムになっています。
教育方針は高校と同様に自由な校風を重視しており、生徒の個性や自主性を尊重する姿勢が特徴です。
主な卒業生には、指揮者の小澤征爾さん、歌手の岩崎宏美さん、シンガーソングライターの森山直太朗さんなどがいます。
音楽や芸術分野で活躍する卒業生が多いことも、この学校の特徴と言えるでしょう。
中学時代はバスケットボールに取り組んでいた

寛一郎さんは中学時代、バスケットボールをしていたことをインタビューで明らかにしています。ただし、部活動として正式に所属していたかどうかは不明です。
「僕自身はインドア派。走るのは、正直好きでも嫌いでもないです。スポーツに打ち込んだ経験はなくて、中学生時代にバスケットボールをやっていたくらい。それからは映画を見たり、ゲームをしたりが多くて」
この発言から、寛一郎さんは中学時代にバスケットボールをしていたものの、本格的にスポーツに打ち込んでいたわけではないことが分かります。
「インドア派」と自認しているように、運動よりも映画鑑賞やゲームなど、屋内での活動を好むタイプだったようです。
バスケットボールは身長182cmという恵まれた体格を活かせるスポーツですが、寛一郎さんにとっては趣味程度の活動だったのかもしれません。
高校時代には特にスポーツに取り組んだ形跡がないことからも、運動よりも文化的な活動に興味があったことがうかがえます。
音楽への興味が芽生えた中学時代
寛一郎さんは中学時代から音楽に興味を持っていました。特にロックが好きで、洋楽・邦楽を問わず様々なアーティストの曲を聴いていたそうです。
「ロックが昔から好きで、洋楽邦楽問わずいろいろと。音楽と映画には、表現としてつながっている部分もあるなと思う。熱い曲を歌っている人たちに心が動かされて、それが自分のエンジンになることはあります」
この発言から、音楽が寛一郎さんにとって単なる娯楽ではなく、表現や感情を揺さぶるものとして捉えられていたことが分かります。
音楽と映画が表現として共通する部分があるという認識は、後に俳優として役を演じる際の感情表現にも影響を与えているのかもしれません。
中学・高校時代を通じて、寛一郎さんは映画鑑賞と音楽に多くの時間を費やしていました。父親が俳優という環境で育ったこともあり、幼い頃から映画の撮影現場に足を運び、映画というメディアに自然と親しんでいました。
音楽への興味と合わせて、こうした文化的な環境が、寛一郎さんの感性を育てていったと考えられます。
寛一郎の出身小学校|成城学園初等学校での撮影現場体験
東京国際映画祭レッドカーペットレポート5。コンペティション作品「恒星の向こう側」から寛一郎さん😊朝ドラ効果か大人気で、自分のエリアはサインスルーされてしまいました😬銀二郎さーん🙏 pic.twitter.com/T8TngV5gMa
— Yoshikiyoshiki (@Yoshikiyoshik16) October 27, 2025
成城学園初等学校での学生生活
寛一郎さんの出身小学校は、成城学園初等学校です。東京都世田谷区祖師谷にあるこの学校は、成城学園の一貫教育の出発点となる学校です。
寛一郎さんは2002年4月に入学し、2008年3月に卒業しています。
成城学園初等学校は、最寄り駅が小田急線の祖師ヶ谷大蔵駅で、成城学園中学校・高等学校とは少し離れた場所にあります。
主な卒業生には、女優の木村佳乃さん、タレントの平子理沙さん、タレントの坂口杏里さんなどがいます。
成城学園初等学校では、個性を尊重する教育方針のもと、子どもたちの自主性を育むカリキュラムが組まれています。
詰め込み型の教育ではなく、体験学習や創造的な活動を通じて、子どもたちの可能性を引き出すことを重視しています。
幼い頃から父親の撮影現場に出入りしていた
寛一郎さんの小学校時代を語る上で欠かせないのが、父親の佐藤浩市さんの撮影現場に頻繁に出入りしていたことです。
佐藤さんに連れられて、映画やテレビドラマの撮影現場を訪れる機会が多くありました。
寛一郎さんは後のインタビューで、小学校時代の撮影現場での記憶を次のように語っています。
「『本番!』と声がかかった時には、子供ながらにその時だけは静かにしなければと思っていました。親父が本番中に演技していた姿を見ていたことは僕の今にとって、すごく大きいです。……今、自分で立ってみるとまた違うわけですが(笑)」
この発言から、寛一郎さんは幼い頃から撮影現場の雰囲気や緊張感を肌で感じていたことが分かります。
「本番」という瞬間の静寂と集中、そして父親が役に入り込んで演技する姿を間近で見ることで、俳優という職業の奥深さや難しさを自然と理解していったのでしょう。
ただし、小学校時代の寛一郎さんは、自分が俳優になるとは考えていませんでした。撮影現場は興味深い場所ではあったものの、それはあくまで父親の仕事の場であり、自分の将来とは結びつけていなかったのです。
この複雑な心境が、後に高校3年生まで俳優になることを拒否し続ける理由の一つになったと考えられます。
有名人の子どもとして育つプレッシャー
寛一郎さんは成城学園という環境で育ったことで、比較的プライバシーが守られた学生生活を送ることができました。
成城学園には資産家や芸能人の子息が多く通っており、特別な存在として扱われることなく、普通の子どもとして過ごせたのです。
しかし、父親が佐藤浩市さん、祖父が三國連太郎さんという「俳優一家」の一員であることは、寛一郎さんにとって常に意識せざるを得ない事実でした。
周囲からの期待や、自分自身に対するプレッシャーは、幼い頃から感じていたはずです。
この環境が、寛一郎さんが高校時代まで俳優になることを拒否し続けた理由の一つと考えられます。
偉大な父や祖父と比較されることへの恐れ、自分が同じ道を歩むことへの躊躇、そして自分自身のアイデンティティを確立したいという思いが、複雑に絡み合っていたのでしょう。
3世俳優としての寛一郎|父・祖父との関係性
寛一郎くん✨😊#栄第七学園男組#ボイメン pic.twitter.com/GulDRh6rty
— あやか (@bm_ayk_89) October 27, 2025
「3世俳優」というレッテルとの向き合い方
寛一郎さんは俳優デビュー後、「3世俳優」というレッテルを貼られることになりました。父親の佐藤浩市さん、祖父の三國連太郎さんという2人の名優を持つ寛一郎さんにとって、この呼称は避けられないものでした。
寛一郎さん自身、この「3世俳優」という呼び方についてインタビューで次のように語っています。
「親のことを言われるのは正直嬉しくないですが、注目していただけることはありがたいことなのでそれをプラスに変えて今後の俳優人生を進んでいこうと思っています」
この発言からは、寛一郎さんの複雑な心境が読み取れます。父や祖父の名前で注目されることは嬉しくない一方で、それがきっかけで自分の演技を見てもらえる機会が増えることは確かです。寛一郎さんは、この状況を前向きに捉え、自分の実力で評価されるよう努力する姿勢を示しています。
「3世俳優」というレッテルは、時にプレッシャーにもなりますが、同時にチャンスでもあります。注目を集めやすい立場を活かし、自分の演技で観客を魅了することができれば、やがては「寛一郎」という名前で評価されるようになるでしょう。
父・佐藤浩市との「暗黙の了解」

寛一郎さんと父親の佐藤浩市さんとの関係は、独特のものです。寛一郎さんが俳優になることを決めた際、佐藤さんは「まあ、そうか」の一言しか返さなかったそうです。
その後も、父子の間では仕事について話すことはないと、寛一郎さんは明かしています。
これは「暗黙の了解」の上での距離感だと、寛一郎さんは説明しています。互いにプロの俳優として、仕事の領域では一定の距離を保つことで、それぞれの道を尊重し合っているのです。
父親からのアドバイスや干渉を受けず、自分自身の力で道を切り開くという覚悟が、この関係性からうかがえます。
佐藤浩市さん自身も、父親である三國連太郎さんとの間に確執があったことが知られています。三國さんは息子が俳優になることに反対していたと言われており、佐藤さんは父親の反対を押し切って俳優の道を選びました。
こうした経験から、佐藤さんは息子の寛一郎さんに対して、あえて干渉せず、見守る姿勢を取っているのかもしれません。
この「暗黙の了解」は、寛一郎さんにとって自立の証でもあります。父親の七光りではなく、自分自身の実力で俳優として評価されるためには、この距離感が必要なのでしょう。
祖父・三國連太郎の死が与えた影響
寛一郎さんが俳優になることを決意したのは、高校3年生の2013年4月でした。この時期は、祖父の三國連太郎さんが亡くなった直後でもあります。
三國さんは2013年4月14日に90歳で逝去しており、寛一郎さんが俳優の道を選ぶ大きなきっかけになったと考えられます。
祖父の葬儀には多くの映画関係者が参列し、寛一郎さんはそこで改めて祖父の偉大さや、俳優という職業の重みを感じたはずです。
また、葬儀の席で映画関係者にスカウトされたことも、寛一郎さんの背中を押す出来事でした。
三國連太郎さんは、日本映画界を代表する名優として知られ、その演技力は高く評価されていました。息子の佐藤浩市さんとは確執があったとされますが、孫の寛一郎さんに対しては温かく接していたのではないでしょうか。祖父の死という出来事が、寛一郎さんに「俳優という職業と向き合う覚悟」を与えたのです。
寛一郎さんにとって、祖父の三國連太郎さんは直接的な教えを受けることはできなかったものの、その存在そのものが大きな影響を与えています。
名優として評価された祖父の背中を見て育ったことが、寛一郎さんの演技に対する姿勢や考え方に影響を与えていることは間違いないでしょう。
寛一郎のデビューから現在まで|俳優としてのキャリア
寛一郎くん会えた🙌#東京国際映画祭 pic.twitter.com/qxArUhKIPN
— だいこう あゆみ📎 (@ayumicandys) October 27, 2025
2017年に映画「心が叫びたがってるんだ」でデビュー
寛一郎さんは、自主制作映画への出演を経て、2017年に商業映画デビューを飾りました。デビュー作は、「Sexy Zone」の中島健人さんが主演した映画「心が叫びたがってるんだ」です。
この作品は人気アニメの実写化で、寛一郎さんは主要キャストの一人として出演しました。
デビュー作でいきなり話題作の主要キャストに抜擢されたことは、寛一郎さんの俳優としての素質が認められた証と言えます。
もちろん、父親や祖父の名前が注目を集める要因になったことは否めませんが、それだけでは主要な役は獲得できません。オーディションや演技のテストを経て選ばれたことから、寛一郎さんの実力が評価されたことが分かります。
「心が叫びたがってるんだ」での演技について、寛一郎さんは「高校時代に何かに没頭したことがなかった自分にとって、没頭する主人公を演じることは憧れでもあり、演じやすかった」と語っています。自分自身の経験を役に重ね合わせることで、リアルな演技ができたのでしょう。
2018年には連続ドラマ「青と僕」でレギュラー出演

2018年には、テレビドラマ「青と僕」で初めて連続ドラマにレギュラーとして起用されました。この作品では池田エライザさんと共演し、青春ドラマの中で若者の悩みや葛藤を演じました。
映画デビューから1年で連続ドラマのレギュラーを獲得したことは、寛一郎さんの俳優としての成長を示しています。
映画とテレビドラマでは演技のスタイルや撮影のペースが異なりますが、寛一郎さんは柔軟に対応し、安定した演技を見せました。
この時期、寛一郎さんはまだ21〜22歳の若手俳優でしたが、着実にキャリアを積み上げていきました。大学に進学せず俳優一本に絞った選択が、結果として正しかったことを証明する形となったのです。
2019年には主演映画「君がまた走り出すとき」で主演デビュー
デビューからわずか2年後の2019年、寛一郎さんは映画「君がまた走り出すとき」で初めて主演を務めました。この作品は青春映画で、寛一郎さんは走ることで自分自身を見つけていく若者を演じました。
主演という重責を担うことは、若手俳優にとって大きなプレッシャーです。しかし、寛一郎さんは「走るのは正直好きでも嫌いでもない」と語りながらも、役作りのために真剣に取り組みました。
インドア派を自認する寛一郎さんにとって、走ることをテーマにした映画は挑戦でもありましたが、それを演じきったことで俳優としての幅を広げることができました。
この主演作の成功は、寛一郎さんが「3世俳優」というレッテルを超えて、一人の俳優として評価されつつあることを示しています。
父や祖父の名前ではなく、「寛一郎」という名前で作品を引っ張る存在になりつつあるのです。
父・祖父を超える俳優を目指して
寛一郎さんの父親である佐藤浩市さんは、日本アカデミー賞を受賞した実力派俳優です。祖父の三國連太郎さんも、日本映画界を代表する名優として知られていました。
この2人を祖父・父に持つ寛一郎さんにとって、彼らを超えることは容易ではありません。
しかし、寛一郎さんは比較されることを恐れず、自分自身の道を歩もうとしています。「親のことを言われるのは正直嬉しくない」としながらも、それをプラスに変えて進んでいくという前向きな姿勢が、寛一郎さんの強みです。
俳優としてのキャリアはまだ始まったばかりですが、着実に経験を積み、演技の幅を広げています。
デビュー作から主演作まで、わずか2年という短期間で実績を積み上げてきたことは、寛一郎さんの才能と努力の証です。
今後、寛一郎さんがどのような作品に出演し、どのような演技を見せてくれるのか、多くの人が注目しています。
父や祖父と比較されることは避けられませんが、やがては「寛一郎」という名前で語られる俳優になることを目指しているはずです。その日が来るまで、寛一郎さんの挑戦は続いていくでしょう。
まとめ
馬面太夫役の寛一郎さんて三國連太郎の孫か。
「社会の外の人」と差別される芸能人、それを役者として演じる多重構造。
更にもう一層。
「破戒(1962)」を演じた三國自身養父が被差別部落出身と公表していて。
孫は大河ドラマで「差別の垣根を突破する人」として出演している。 #大河べらぼう pic.twitter.com/OmrmS8JY8o— 夕街昇雪☕大阪九龍条🍵🏳️🌈けんかはよせ、はらがへるぞ🪧☮🎗🍀 (@ugainovel) March 16, 2025
寛一郎さんの学歴は、幼稚園から高校まで成城学園一筋の16年間でした。成城学園という自由な校風の中で、比較的プライバシーが守られた学生生活を送ることができました。
しかし、高校卒業後は成城大学への内部進学という選択肢を捨て、俳優の道を選びました。
この決断には、高校3年生の時に亡くなった祖父・三國連太郎さんの存在が大きく影響しています。祖父の葬儀で映画関係者にスカウトされたことをきっかけに、「俳優という職業と向き合う覚悟」を決めたのです。
大学に進学せず、ロサンゼルスに短期留学して演技を学んだ後、21歳で俳優デビューを飾りました。
「3世俳優」というレッテルを背負いながらも、寛一郎さんは自分自身の実力で評価されるよう努力を続けています。
父・佐藤浩市さんとは「暗黙の了解」の上で距離を保ち、仕事については話さないという関係性を築いています。この独立した姿勢が、寛一郎さんの俳優としての成長を支えているのでしょう。
デビューからわずか2年で主演作を獲得するなど、順調にキャリアを積み上げている寛一郎さん。
成城学園での16年間と、大学に進学しなかった決断が、今の寛一郎さんを作り上げています。父や祖父という偉大な先人を超える俳優を目指し、寛一郎さんの挑戦はこれからも続いていきます。
 
  
  
  
  

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