日本の音楽シーンに革命をもたらしたシンガーソングライター・米津玄師さん。独特な世界観と圧倒的な楽曲センスで世代を超えて愛される彼の原点には、どのような学生時代があったのでしょうか。
1991年3月10日、徳島県徳島市に生まれた米津さんは、幼少期から高機能自閉症を患い、人とのコミュニケーションに大きな困難を抱えていました。しかし、その孤独な環境こそが、後の音楽活動の原動力となっていきます。
本記事では、米津玄師さんの小学校から専門学校時代までの学歴と、各時期の音楽的成長を詳しく解説します。
内向的だった少年が、なぜ国民的アーティストへと成長できたのか。その答えは、彼の学生時代に隠されています。
米津玄師の学歴まとめ
GINZAのやつ買ってもーた!
中身見たけど米津玄師イケメンすぎるもう買って正解!大正解! pic.twitter.com/FonlZotIDw— り んたろー (@rinrindoradora1) October 12, 2025
まず、米津玄師さんの学歴を一覧で確認しましょう。
- 出身小学校:徳島市立津田小学校(1997年4月入学・2003年3月卒業)
- 出身中学校:徳島市立津田中学校(2003年4月入学・2006年3月卒業)
- 出身高校:徳島県立徳島商業高等学校(2006年4月入学・2009年3月卒業)
偏差値:46〜47程度 - 出身専門学校:大阪芸術大学附属大阪美術専門学校(2009年4月入学・2010年3月中退)
米津さんは大学には進学せず、美術系の専門学校を経て音楽の道へ進みました。
学歴だけを見ると決して華やかではありませんが、各時期で音楽的な才能を着実に磨いていった過程が注目すべきポイントです。
小学校時代|音楽との最初の出会い
え、もしかして左の顔も???
って思って重ねてみたら
ドンピシャでマジで笑えない。米津玄師トリビュートアルバム参加確定
【4枚目】差分動画
#RADWIMPS #DearJubilee
#RADWIMPS20th #米津玄師 pic.twitter.com/h0hBJBNVBR— せゐGHOST12/17 (@Oor_8_raD) November 3, 2025
徳島市立津田小学校での6年間
米津玄師さんの出身小学校は、地元徳島市の公立校である津田小学校で、家族構成は両親と2歳年上の姉の4人家族で、父親はコンピューター関連の仕事をしていました。
幼少期から高機能自閉症を患っていた米津さんは、人とコミュニケーションをとるのがとても苦手だったそうです。
小学生の頃にはほとんど誰とも話をせず、自分の妄想から生まれたキャラクターと会話する、かなり変わった少年だったといいます。
当時の心境について、米津さん自身が後年こう振り返っています。「小学校高学年ぐらいの時にはもう、居心地の悪さみたいなものを感じていて。その中で編み出したのは、自分の頭の中で架空の人物と話すということ。そこではちゃんと会話が成り立っていて、あたりまえのことをあたりまえに楽しみ合ったり、あたりまえのように反発し合ったりして……俺はずっと、普通の人になりたかった」。
孤独な少年時代でしたが、この時期に二つの重要な出会いがありました。
音楽への目覚めと「だんご3兄弟」
『米津玄師「タワラブ!」B1ポスターを全国のタワーレコードで掲出』
□掲出期間
9月22日(月)~10月6日(月)
※終了日は店舗によって異なる場合がございます。※画像引用元※https://t.co/wLtIyE8Qk4 pic.twitter.com/kdWezz7iC0
— ミモザ (@blue_mimosa) September 12, 2025
小学校3年生の時に当時大ヒットしていた「だんご3兄弟」がはじめて買ったCDで、それまでは音楽を聴かない生活をしていました。
米津さん自身もこの「だんご3兄弟」が自身の音楽の根底にあるといい、そこから発展していったと語っています。
さらに小学5年生の時にインターネットでフラッシュアニメと出会ったことで、BGMに使われていたBUMP OF CHICKENなどの音楽に没頭していくことになります。
映像と音楽の融合に強い衝撃を受けた米津さんは、この体験が後の音楽制作の原点になったと明かしています。
宮崎駿とジブリ作品への傾倒
小学校時代にスタジオジブリの映画「千と千尋の神隠し」を観て衝撃を受けた米津さんは、どうしたらこの世界観を描けるのだろうと宮崎駿さんやジブリ関連の本を読み漁りました。特に宮崎駿さんの漫画「風の谷のナウシカ」が大好きで、現在でもジブリのファンだと公言しています。
この時期に培った幻想的な世界観への憧れが、後の楽曲やMVに色濃く反映されることになります。
中学校時代|音楽制作への本格的な挑戦
この画像のすごいところ
米津玄師はほとんどの人が「言葉を会話で発するイメージ」が湧かない。
だから本心を板書で表示しているように見える pic.twitter.com/nduB9YXLpU— 加藤一一一 (@Kat0u_pinzoro) May 14, 2025
徳島市立津田中学校での3年間
小学校を卒業したのち、米津さんは地元徳島市内の公立校である津田中学校に進学しました。この時期、米津さんの音楽活動は大きく前進します。
J-POPとの出会い
中学時代はスピッツやアジアンカンフージェネレーション、BUMP OF CHICKEN、RADWIMPS などのJ-POPや日本のロックバンドの曲を普段から好んで聴いていたそうで、作詞などもかなり吟味していました。
単に音楽を楽しむだけでなく、楽曲構造や歌詞の技法を分析的に研究していたことがうかがえます。
DTMとの出会いと作曲のはじまり
オリジナルの曲を作りたいという気持ちが強くなった米津さんは、実際に曲の制作をはじめます。
当初はギターで作曲していましたが納得するものが作れなかったことから、打ち込みでの作曲をすることにしました。
中学2年生の頃からパソコンで音楽を演奏したり製作するデスクトップ・ミュージック(DTM)をはじめ、独学で音楽制作の技術を習得していきます。
最初に完成した曲は当時好きだったNHKの「みんなのうた」に影響を受けた「えのぐの歌」という曲でした。
さらに中学3年生の時にはマルチトラック・レコーダーを使用して作曲もおこなうほど、技術的に成熟していきました。
孤独と向き合う日々
米津玄師は『Lemon』という曲で世間的に有名になりましたね
画像の3,4枚目はアルバム『YANKEE』のジャケットと画集
レモンと鹿 https://t.co/1Iqy4Exq5l pic.twitter.com/vsZY6ttf6O
— 621Q (@tenchu_14) March 9, 2025
しかし、音楽面での成長とは裏腹に、人間関係では苦労が続くことになります。
米津さん自身が中学時代を振り返って「悶々と生きていた」と話しており、当時は自分のことを分かってくれる人や話の合う人、趣味の合う人は周りにはいなかったと語っています。
校内では騒いだりせずに宮沢賢治などの本を読んで静かに過ごすタイプでした。
そんな孤独な環境だからこそ、音楽制作に打ち込めたとも言えるでしょう。
高校時代|バンド活動と音楽への没頭
なんかわからんけどこの画像めっちゃおもろい 米津玄師には悪いけど pic.twitter.com/6vBCWqkS7L
— もさ (@MosaKyoto) September 30, 2025
徳島県立徳島商業高校での3年間
高校卒業後、米津さんは徳島県立徳島商業高等学校に進学し、同校は1909年開校の県立の商業高校で、甲子園で優勝経験もある硬式野球部を筆頭に、スポーツが盛んであることで知られています。
同校の偏差値は46〜47程度で、商業・会計情報・情報処理の3学科を設置しています。
米津さんがどの学科に在籍したかは明らかにされていませんが、音楽系の学科ではない商業高校を選んだ点は興味深いです。
ギターを担いで自転車通学

米津さんは高校時代もあまり周囲の人とは絡むことなく、同校在学中は楽曲や動画の製作に明け暮れていました。学校にもギターを担いで自転車で通学しています。
校内では昼休みにはいつもイヤフォンをつけて音楽を聴いており、聴いている最中に話しかけられるのがすごく嫌で、同級生が声をかけたらものすごく怒ったというエピソードも残っているほどでした。
さらに教室が騒がしかった時には米津さんが机をバーンと叩いて、教室を出て行ったこともありました。
音楽への集中力が異常なまでに高かった高校時代の米津さん。周囲からは「変わった人」と見られていたことは容易に想像できます。
バンド活動と「閃光ライオット」への挑戦
高校時代の文化祭には「Toy Circus Show」というバンドを率いて演奏を披露しています。当時はライブもおこなっていましたが、米津さん自身は「楽しくなかった」と振り返っています。
「高校生になってからも何回かライブやったんです。その時に、何をどうしていいかわかんない感覚がすごくあって。スタジオで音を出しても、自分の声がまったく聞こえなかったりとか、全然楽しくなくて」と当時の心境を語っています。
高校3年生のときにバンド「Late rabbit edda」を結成してヴォーカルとギターを担当し、ベースがいないときはベースも担当していました。
2008年の「第1回閃光ライオット」に10代限定ということで応募したところ、2次審査で落選しています。
この挫折経験が、後の個人での音楽活動へ舵を切るきっかけになったと考えられます。
高校時代を支えた音楽ショップとラジオ
孤独な学生生活の中、米津さんを支えたのはやはり音楽でした。
米津さんは自宅近くの音楽ショップに居座ってただただ音楽に浸っている学生でした。また、ラジオ番組「ジブリ汗まみれ」が大好きで欠かさず聞いていたといいます。
以上のことから米津さんは学校によい思い出はなく、音楽に関連する場所や時間が心の拠り所だったことがわかります。
専門学校時代|ハチとしての活動開始
米津玄師「KICK BACK」
RIAAプラチナ認定
おめでとうございます〜!!(^_^)/画像は過去絵#チェンソーマン ←絵文字が!#米津玄師 さんのPVより#似顔絵 #イラスト https://t.co/wYgWOLwKUY pic.twitter.com/TooDzbCQC6
— タカマサ@似顔絵 ダイエット再開 (@oekaki_takamasa) September 17, 2025
大阪芸術大学附属大阪美術専門学校への進学

徳島商業高校を卒業後、米津さんは大阪芸術大学附属大阪美術専門学校に通いました。
総合デザイン学科とコミック・アート学科を設置する専門学校で、米津さんは総合デザイン学科のイラストレーションコースに進みました。
幼少期から絵を描くのが好きだった米津さんにとって、美術の道は自然な選択だったのかもしれません。
実際、現在でも自身の楽曲のMVやジャケットデザインを手がけるなど、美術の才能も発揮しています。
「しょーもない学生」だった専門学校時代
米津さんはインタビューで学校ではちゃんと勉強していなかったことを明らかにしており、「学生としてはしょーもない学生で、学校から絵の技術なども学んだことはなく、何しに学校に行ってたのか?と聞かれたら、ほぼ遊びに行っていたので、学校の憩いの場みたいな休憩スペースでひたすらモンハン(ゲーム)と卓球をやるような学生だった」と語っています。
真面目に授業を受けるタイプではなかったようですが、これは音楽活動に集中するための選択だったとも言えます。
バンド活動から個人制作へのシフト
専門学校在籍時には「Ernst Eckmann」というバンドでも活動を行っており、このときは、ベースとボーカルを担当していました。
米津さんが応えていたインタビューによると、うまく演奏したいと思う米津さんとメンバーとのあいだに温度差があって、バンドは活動を休止してしまいます。
米津さん自身が「自分は個人主義的な人間で人と一緒にものを作ることが出来ず、そのためバンドではうまく行かなかった」と述べています。
この経験が、ボカロを使った個人での音楽制作へと方向転換する決定的な転機となりました。
ボカロP「ハチ」としてのデビュー
そういえば米津玄師って何歳だっけ?って思って調べたらこれで顔ない pic.twitter.com/F65G6vgY7t
— 話題のツイートbot (@amatsusae54) October 17, 2025
専門学校時代には米津さんはボーカロイドに出会っています。
そしてボーカロイドで曲を作ったら非常に楽しかったことから、のめり込んでいき、入学当初から「ハチ」という名義でニコニコ動画への投稿を開始します。
「ハチ」という名前の由来については、米津さんの姉が「ナナ」という漫画が大好きだったから、それをもじって「ハチ」になったとのことです。
最初は本人が歌う形で30本程度の動画を投稿しましたが、実力不足を感じてその後に削除しています。
ところが2009年にVOCALOIDを使って動画を製作するようになると、これが大いにウケて、総数で2000万回以上の再生回数を記録することになります。
2011年までに発表した「結ンデ開イテ羅刹ト骸」「マトリョシカ」「パンダヒーロー」などはミリオン再生を記録し、米津玄師のボカロP時代の名前「ハチ」はその界隈でもトップクラスの知名度を誇るようになりました。
音楽的転機となった2つのアルバム

専門学校時代にアメリカのVampire Weekend(ヴァンパイア・ウィークエンド)のデビューアルバム「Vampire Weekend」に大きな影響を受けています。
「スカスカでへなちょこな感じに聞こえるけど、独創的でメロディが美しく、スカスカかと思いきや必要な音しか鳴らしていない合理性とか、そういうものを一番最初に聴いた時にとんでもない衝撃を受けて、このアルバムはものすごく聴きました。バイブル的なアルバムです」と語っています。
さらに専門学校時代にはアメリカのロックバンド「トーキングヘッズ」の「リメインライト」というアルバムにも影響を受けたと語っています。
これらの洋楽からの影響が、米津玄師の独特なサウンドの基礎を形成したと言えるでしょう。
専門学校中退とメジャーデビューへの道
米津さんは1年あまりで専門学校も中退してしまいます。ニコニコ動画での成功が、音楽の道で生きていく自信につながったのでしょう。
2010年には自主制作アルバムの「花束と水槽」をリリースし同じ年には自主制作アルバムの「OFFICIAL ORANGE」もリリースしています。
動画やアルバムの投稿で才能を見出され、その後のメジャーデビューへとつながっていきました。
2012年には米津玄師名義のアルバム「diorama」でソロデビューを果たし、2013年にはユニバーサルシグマからシングル「サンタマリア」でメジャーデビューを実現させます。
メジャーデビュー後の快進撃
2023年の本日は米津玄師が日本展開50周年を迎えたLOEWEとコラボしたポップアップ開始日。秋冬メンズコレクションの顔として、有名ファッションブランドでモデルとして活躍した。店頭には彼がまとう「天使の羽」のルックなどが展示され、日本全国で屋外広告が展開された。 pic.twitter.com/pFVNYTEn7P
— 米津玄師を科学する (@yonetsu_bet) August 16, 2025
2013年にメジャーデビュー後は、数々のヒット曲をリリースしていくことになります。
2016年にはソニー・ミュージックレコーズへ移籍し、2017年にリリースしたアルバム「BOOTLEG」はリリース翌年までチャートインを続け、商業的な成功を収めました。
音楽的評価も高く、CDショップ大賞・第60回日本レコード大賞にていずれも最高賞を獲得しました。
そして8枚目のシングルとして発売された「Lemon」は史上初となるダウンロード300万セールス超えを記録し、2年連続でBillboard Japan Hot 100年間チャート首位を記録します。
ミュージックビデオの再生回数は9億回を超え邦楽最多となっており、自身最大のヒット曲および2010年代の邦楽を代表する曲となりました。
米津さんは2018年のNHK紅白歌合戦に出場した際には、亡くなった祖父に捧げた「LEMON」を歌っており、祖父の死もオファーを受けた理由のひとつだったことを明らかにしています。
幼少期に大好きだった祖父への思いが、国民的ヒット曲を生み出したのです。
まとめ|孤独が生んだ音楽的才能
買い物絶対着いてきてさりげなく重いもの持ってくれる。顔全然似てなくて、背高くて細くて米津玄師に何となく似ててこんな感じに髪伸ばしたらもっと似るんじゃない?って言ったらこんな感じに伸ばし始めて、前回の米津のライブでつなぎ買ったらニコニコで着てるし㌿ 可愛い。 pic.twitter.com/JvIIgp5fBs
— らむ (@393nyannyan) June 10, 2025
米津玄師さんの学生時代を振り返ると、決して順風満帆ではありませんでした。高機能自閉症によるコミュニケーションの困難、周囲に理解されない孤独、バンド活動での挫折。しかし、そのすべてが彼を音楽へと向かわせる原動力となりました。
徳島の公立小中学校から商業高校、そして美術専門学校中退という学歴は、華やかなキャリアとは言えないかもしれません。
しかし、各時期で音楽的な技術を独学で磨き、インターネットという新しいプラットフォームを活用して才能を開花させた点は、現代のアーティストの成功モデルとも言えます。
人とのコミュニケーションが苦手だったからこそ、音楽という言語で世界中の人々とつながることができた米津玄師さん。
彼の学生時代のエピソードは、自分らしい表現方法を見つけることの大切さを教えてくれます。
現在も第一線で活躍を続ける米津玄師さん。今後どのような楽曲で私たちを魅了してくれるのか、ますます期待が高まります。


コメント