阿部亮平の高校は偏差値68の駒場高校!芸能活動休止してまで挑んだ大学受験と両立の苦悩

Snow Manのメンバーとして活躍する阿部亮平さん。ジャニーズ随一のインテリタレントとして知られ、上智大学大学院修了、気象予報士の資格保持者という異色の経歴を持っています。

クイズ番組での活躍や、朝の情報番組「ZIP!」での天気予報解説など、その知性を活かした活動の幅は広がり続けています。

しかし、この華々しい学歴の基盤となったのが、高校時代の壮絶な努力でした。偏差値68の難関進学校・東京都立駒場高校に一般受験で合格し、ジャニーズJr.として活動しながら学業でも成績優秀を維持。

そして高校3年生の夏、阿部さんは大きな決断を下します。大学受験のために、芸能活動を休止するという選択です。

この決断は、同じSnow Manのメンバーからも批判を受けました。特に宮舘涼太さんからは「グループのことより勉強が大事か?」と詰め寄られ、メンバー間に亀裂が生じたのです。それでも阿部さんは、芸能活動と学業の両立という信念を曲げませんでした。

この記事では、阿部亮平さんの高校時代を徹底的に掘り下げます。駒場高校への進学理由、Mis Snow Manへの加入、1日12時間の受験勉強、芸能活動休止をめぐる葛藤、そして第一志望の大学に落ちた事実まで。

彼の高校3年間は、まさに「文武両道」ならぬ「文芸両道」の戦いでした。

阿部亮平の学歴全体像と駒場高校入学までの道のり

東京都港区白金で育った幼少期

阿部亮平さんは1993年11月27日、千葉県で生まれました。家族構成は両親と兄の4人家族です。

身長178cm、血液型はAB型。現在のSnow Manのメンバーの中でも、特に整った顔立ちと知性的な雰囲気で人気を集めています。

阿部さんは千葉県で生まれ育ちましたが、小学5年生の時に東京都港区に引っ越しています。

港区白金という、東京の中でも高級住宅街として知られるエリアです。この引っ越しが、後の阿部さんの人生に大きな影響を与えることになります。

幼少期から、阿部さんは理系科目に強い興味を持っていました。そのきっかけは、通っていた幼稚園での経験です。

阿部さんが通った幼稚園は少し変わっていて、小学校のようにクラブ活動があったといいます。

「通っていた幼稚園はちょっと変わっていて、小学校みたいにクラブ活動があって、選ぶことができました。工作や科学の実験をするクラブに入り、ビー玉をヒーターで熱すると、きれいなヒビが入るので、そのビー玉を使って指輪を作ったのを覚えています」

幼稚園児にして、科学実験に興味を持つというのは驚きです。ビー玉をヒーターで熱すると内部にきれいなヒビが入る現象。

これは急激な温度変化による熱応力で起こる現象で、物理学の基本的な原理を体験していたことになります。

また、両親が購入してくれた10玉のそろばんも、阿部さんの数学的思考を育てました。「数の概念を表現しやすく理解しやすかった」と本人が語るように、視覚的に数を理解できるそろばんは、抽象的な数学の概念を具体的に理解する助けとなったのです。

小学生時代の阿部さんは、完璧主義でした。算数と理科が得意でしたが、それだけでは満足せず、苦手教科をなくしてすべて100点を取りたいと思っていたといいます。

友人と競争して円周率を100桁以上覚えていたというエピソードも、彼の向上心の強さを物語っています。

小学5年生でのジャニーズ入所と東京への転居

小学5年生の時、阿部さんの人生に大きな転機が訪れます。2004年8月12日、阿部さんはジャニーズ事務所に入所したのです。

きっかけは、人見知りだった阿部さんを心配した母親が、テレビ番組「Ya-Ya-yah」の公開オーディションに応募したことでした。

実は、阿部さんは小さい頃から様々なダンスを習っていました。クラシックバレエ、ジャズダンス、ヒップホップ、タップダンス。まさにダンスの英才教育です。

さらにテニスやサッカーも習っていたというから、文武両道どころか、文武芸すべてに秀でた少年だったのです。

オーディションでは、こうしたダンスの経験が活きました。見事合格を果たした阿部さんは、ジャニーズJr.としての活動をスタートさせます。

同期には、後にHey! Say! JUMPのメンバーとなる山田涼介さん、森本龍太郎さん、そして同じSnow Manのメンバーとなる深澤辰哉さんがいました。

ちなみに、当時の阿部さんは茶髪でした。母親の勧めで小学校2年生の頃から茶髪にしていたのです。人見知りで友達が作れなかった阿部さんを心配した母親が、「目立つ髪型にすれば覚えてもらえるのでは」と考えたのがきっかけでした。

この茶髪作戦は見事に成功し、阿部さんは周囲から覚えてもらえるようになり、友人の輪も広がったといいます。

オーディション時も金髪だった阿部さんは、小学5年生には見えなかったそうです。この個性的な見た目が、審査員の印象に残ったのかもしれません。

ジャニーズ入所後、阿部さんは千葉県から東京都港区に引っ越しています。ジャニーズの稽古場は東京にあり、千葉から通うのは時間がかかりすぎるからです。

こうして阿部さんは、港区立白金小学校に転校しました。

ジャニーズJr.としての活動は想像以上にハードでした。先輩メンバーの公演の3日前に突然呼び出され、10曲以上の振付を短期間で覚えなければならないこともありました。学校と芸能活動の両立は、小学生にとって大きな負担だったはずです。

しかし、こうした厳しい環境が、阿部さんに一つの気づきをもたらします。「自分には取り柄がない」という感覚です。

周りには歌もダンスも抜群に上手い先輩や同期がいます。自分はその中で、何を武器にすればいいのか。この問いが、阿部さんを勉強へと駆り立てることになります。

港区立高松中学校での成績優秀な日々

小学校を卒業した阿部さんは、地元の公立校である港区立高松中学校に進学しました。

この学校からは、タレントの関根勤さんやミュージカル俳優の山崎育三郎さんなど、芸能界で活躍する卒業生を多く輩出しています。

中学時代も、阿部さんはジャニーズJr.として活動を続けていました。そのため部活動には入らず、帰宅部でした。

芸能活動と学業の両立だけでも大変なのに、部活動まで加えることは物理的に不可能だったのです。

それでも、阿部さんは芸能活動を言い訳にして勉強を疎かにすることはありませんでした。むしろ、「ジャニーズだから」という言い訳をしたくないという強い思いから、より一層勉強に励んだのです。

中学1年生の2学期中間テストで、阿部さんは学年1位を獲得しました。この快挙を、本人は「嬉しかった」と振り返っています。

芸能活動をしながら学年トップを取る。これは並大抵の努力ではありません。

当時、阿部さんは千葉県に住んでいたこともあり(引っ越した時期の詳細は不明ですが)、東京の稽古場まで電車で1時間ほどかかっていました。

この通勤時間を無駄にしないため、阿部さんは自分でまとめた復習ノートを電車の中で読んでいたといいます。さらに、楽屋での待ち時間も勉強に充てていました。

中学2年生の時には、英語検定準2級に合格しています。英検準2級は高校中級程度のレベルで、中学2年生で合格するのは優秀な証です。阿部さんの語学力は、この頃からすでに高いレベルにあったことがわかります。

芸能活動も順調でした。中学時代は主に舞台で活動しており、中学3年生の時にはジャニーズ事務所の名物舞台「PLAY ZONE」にも出演しています。

舞台は長時間の拘束があり、稽古も厳しいものです。それでも学業をおろそかにしない阿部さんの姿勢は、周囲からも一目置かれていました。

中学卒業時、阿部さんは在校生代表として送辞を読み、さらに卒業生代表として答辞も読んでいます。これは、阿部さんが成績優秀で模範的な生徒だったことを示しています。送辞と答辞の両方を任されるというのは異例で、学校側からの信頼の厚さがうかがえます。

こうして中学3年間を過ごした阿部さんは、次なるステージである高校進学を控えていました。そして、ここで彼は重要な決断を下すことになります。

偏差値68の駒場高校への進学決断

都立トップクラスの進学校を選んだ理由

中学卒業を控えた阿部亮平さんが選んだ進学先は、東京都立駒場高等学校でした。この高校は偏差値68という、都立高校の中でもトップクラスの難関進学校です。

1905年開校の伝統校で、古くから都立では上位の進学校として知られています。

駒場高校には普通科のほか、保健体育科(偏差値60)も併設されています。特にサッカー部は都立の強豪として知られており、全国大会への出場経験もあります。

文武両道を掲げる学校として、多くの優秀な生徒が集まる環境です。

阿部さんが駒場高校を選んだ理由は、明確には語られていません。しかし、いくつかの推測はできます。

まず、自宅からのアクセスの良さです。駒場高校は目黒区大橋にあり、最寄り駅は駒場東大前駅と池尻大橋駅。港区からの通学は比較的便利です。

次に、都立高校であることの意味です。ジャニーズJr.として活動しながら高校に通う場合、私立高校では芸能活動に理解のある学校を選ぶケースが多くあります。

しかし阿部さんは、あえて一般的な都立高校を選びました。これは、「普通の高校生としても生きたい」という思いがあったのかもしれません。

さらに、学力レベルの高さも重要な要因でしょう。阿部さんは中学時代、学年1位を取るほど成績優秀でした。

その学力を活かせる進学校に行きたいという思いは自然です。偏差値68という高いレベルの環境で、さらに自分を高めたいと考えたのでしょう。

一般受験での合格という快挙

阿部亮平さんは、駒場高校に一般受験で合格しました。これは非常に重要なポイントです。

芸能人の高校進学では、推薦入試やAO入試を利用するケースも多くあります。しかし阿部さんは、他の受験生と同じ土俵で戦い、一般受験で合格を勝ち取ったのです。

偏差値68の高校に一般受験で合格するということは、相当な学力が必要です。都立高校の入試は、内申点と当日の試験の両方が評価されます。

阿部さんは中学時代の成績が優秀だったため内申点は高かったでしょうが、それだけでは合格できません。入試当日の試験でも高得点を取る必要があります。

しかも、阿部さんは中学時代もジャニーズJr.として活動していました。舞台出演、レッスン、イベント参加など、多忙なスケジュールの中で受験勉強をしていたのです。

電車の中での復習、楽屋での勉強。こうした積み重ねが、合格という結果につながりました。

一般受験での合格は、阿部さんに大きな自信を与えたはずです。「ジャニーズだから」という特別扱いではなく、純粋に学力で評価された。

この経験が、後の「学業と芸能活動の両立」という信念の基盤となっていきます。

駒場高校の校風と進学実績

駒場高校は、自由で開放的な校風で知られています。生徒の自主性を重んじ、校則も比較的緩やかです。

制服はありますが、着こなしの自由度は高く、髪型も比較的自由です。阿部さんのような芸能活動をしている生徒にとっても、活動しやすい環境だったでしょう。

進学実績も優秀です。毎年、東京大学や京都大学などの難関国立大学、早稲田大学や慶應義塾大学などの難関私立大学に、多数の合格者を輩出しています。

生徒のほぼ全員が大学進学を目指しており、学習意欲の高い環境です。

著名な卒業生も多数います。女優の吉永小百合さん、歌手の加藤登紀子さん、お笑い芸人しずるの村上純さんなど、様々な分野で活躍する人材を輩出しています。

阿部さんも、この伝統ある学校の卒業生の一人となるわけです。

ただし、駒場高校は進学校であるため、学業面での要求は厳しいものがあります。定期テスト、小テスト、課題など、常に勉強が求められる環境です。

部活動も盛んで、多くの生徒が勉強と部活の両立に励んでいます。

阿部さんにとって、この環境は大きなプレッシャーでもありました。周りの生徒たちは勉強に専念できますが、自分には芸能活動という もう一つの大きな負担があります。二兎を追う生活が、高校3年間続くことになるのです。

高校1年生でのMis Snow Man加入と多忙な日々

新ユニット結成と期待の高まり

2009年4月、阿部亮平さんは駒場高校に入学しました。新しい環境、新しい仲間、新しい挑戦。高校生活への期待に胸を膨らませていたことでしょう。しかし、その期待はすぐに現実の厳しさに直面することになります。

入学からわずか9ヶ月後の2009年1月、阿部さんにビッグニュースが飛び込んできました。新しいジャニーズJr.のユニット「Mis Snow Man」のメンバーに選ばれたのです。

Mis Snow Manは、後のSnow Manの前身となるユニットです。当初のメンバーは8人で、阿部さんのほか、深澤辰哉さん、佐久間大介さん、渡辺翔太さん、真田佑馬さん、野澤祐介さん、宮舘涼太さん、岩本照さんで構成されていました。

ユニット結成の背景には、ジャニーズJr.の中から次世代のスター発掘しようという事務所の意図がありました。すでに嵐、関ジャニ∞、Hey! Say! JUMPなどのグループがデビューしており、次の世代のグループを育てる時期に来ていたのです。

阿部さんにとって、このユニット加入は大きなチャンスでした。ジャニーズJr.として個別に活動するよりも、ユニットとして活動する方が注目度も高く、デビューへの道も近づきます。しかし同時に、これは責任とプレッシャーも大きくなることを意味していました。

レッスン・学業・舞台の三重苦

阿部亮平の高校は偏差値68の駒場高校!芸能活動休止してまで挑んだ大学受験と両立の苦悩

Mis Snow Manのメンバーとなった阿部さんの生活は、一気に多忙になりました。レッスン、リハーサル、舞台出演、イベント参加。これらすべてをこなしながら、駒場高校での学業も維持しなければなりません。

ジャニーズのレッスンは厳しいことで知られています。

ダンスレッスン、歌唱レッスン、演技レッスン。それぞれのレッスンで高いレベルが求められ、妥協は許されません。特にダンスは、Mis Snow Manの大きな特徴でもあったため、激しい練習が必要でした。

舞台出演も頻繁にありました。ジャニーズJr.は、先輩グループのコンサートのバックダンサーとして出演したり、Jr.だけの舞台に出演したりします。

舞台は本番だけでなく、稽古にも長時間を要します。学校が終わってから夜遅くまで稽古、という日々が続きました。

一方、駒場高校は偏差値68の進学校です。授業のレベルは高く、課題も多く出されます。

定期テストの範囲も広く、しっかり勉強しなければ良い成績は取れません。周りの生徒たちは放課後に予備校に通ったり、図書館で勉強したりしています。

阿部さんには、そうした時間がありません。放課後はすぐにジャニーズの稽古場に向かわなければならず、勉強時間を確保するのは至難の業でした。

電車での移動時間、稽古の合間のわずかな休憩時間、深夜帰宅してからの数時間。こうしたすきま時間を徹底的に活用して、阿部さんは勉強を続けました。

すきま時間を活用した独自の勉強法

阿部亮平の高校は偏差値68の駒場高校!芸能活動休止してまで挑んだ大学受験と両立の苦悩

阿部さんは、効率的な勉強法を編み出していました。その一つが「復習ノート」です。授業で学んだ内容を、自分なりにまとめ直したノートを作り、それを電車の中で見返すのです。

復習ノートの利点は、重要ポイントが凝縮されていることです。教科書や参考書をそのまま読むと時間がかかりますが、自分でまとめたノートなら短時間で効率よく復習できます。しかも、まとめる作業自体が学習になるため、二重の効果があります。

楽屋での待ち時間も無駄にしませんでした。舞台やイベントでは、自分の出番まで待機する時間が長くあります。

他のメンバーがおしゃべりしたり、ゲームをしたりしている間、阿部さんは一人、教科書を開いていました。

この姿勢は、最初は周囲から奇異な目で見られたかもしれません。「なんであいつはいつも勉強してるんだ」「もっと仲間と楽しめばいいのに」。そんな声もあったでしょう。しかし阿部さんは、自分の信念を曲げませんでした。

学業と芸能活動の両立。それが自分の目標であり、そのためには周りがどう思おうと関係ないのです。

深夜に帰宅してからも、阿部さんは勉強を続けました。疲れた体にムチを打って、机に向かう。眠気と戦いながら、問題集を解く。翌日の小テストの勉強をする。こうした日々の積み重ねが、阿部さんの学力を支えていました。

高校3年生の舞台「HOT SNOW」主演

阿部亮平の高校は偏差値68の駒場高校!芸能活動休止してまで挑んだ大学受験と両立の苦悩

高校3年生の時、Mis Snow Manにとって大きな出来事がありました。グループが主演する映画「HOT SNOW」の制作です。

これは、ジャニーズJr.のユニットが主演する映画として注目を集めました。

映画撮影は、想像以上にハードなスケジュールです。早朝から深夜までの撮影、リハーサル、打ち合わせ。しかも、演技経験の少ないメンバーたちにとって、映画撮影は初めての経験ばかりでした。

阿部さんは、この映画撮影と受験勉強を両立させなければなりませんでした。高校3年生といえば、受験の年です。

周りの生徒たちは夏休みから本格的に受験勉強に入り、1日10時間以上勉強する生徒も少なくありません。

しかし阿部さんには、そんな時間はありません。映画撮影の合間に参考書を開き、移動の車中で英単語を覚え、撮影が終わって深夜に帰宅してから数学の問題を解く。

こうした生活を続けることは、肉体的にも精神的にも限界に近いものがありました。

同じ年、阿部さんたちは先輩グループの東京ドーム公演にも同行しました。東京ドームという大舞台で、何万人もの観客の前でパフォーマンスをする。

この経験について、阿部さんは「大勢の観客に見られる快感を知った」と語っています。

大きなステージでの成功体験は、アイドルとして大きな自信になります。しかし同時に、それは「もっとこの世界で活躍したい」という欲求も強めます。一方で、大学進学という別の目標もある。この二つの目標の間で、阿部さんは引き裂かれるような思いをしていたはずです。

高校3年生の夏:芸能活動休止という苦渋の決断

受験勉強との両立の限界

2011年の夏、高校3年生だった阿部亮平さんは、人生を左右する大きな決断を迫られていました。大学受験まであと半年余り。

しかし、Mis Snow Manの活動は忙しさを増すばかりで、受験勉強に充てる時間はほとんどありませんでした。

駒場高校の同級生たちは、すでに受験モードに入っていました。夏休みは受験の天王山と言われ、この時期にどれだけ勉強できるかが合否を分けます。

多くの生徒が朝から晩まで予備校や図書館にこもり、1日10時間以上勉強していました。

一方、阿部さんはレッスン、リハーサル、舞台の稽古に追われていました。勉強時間は1日2〜3時間確保できれば良い方で、全く勉強できない日もありました。

このままでは志望大学に合格できない。阿部さんは焦りと不安に苛まれていました。

多い日には1日12時間勉強しなければ、難関大学には合格できません。しかし、芸能活動を続けながら1日12時間の勉強は物理的に不可能です。

睡眠時間を削っても、足りません。阿部さんは考えました。どうすれば両立できるのか。どちらかを諦めるべきなのか。

そして、一つの結論に達しました。一時的に芸能活動を休止し、受験勉強に専念する。合格したら、また芸能活動に戻る。これが、阿部さんが見出した答えでした。

メンバーからの批判と孤立

2011年8月、阿部亮平さんは事務所に芸能活動休止の意向を伝えました。そして、Mis Snow Manのメンバーにもその決断を告げました。

メンバーたちの反応は、阿部さんが予想していた以上に厳しいものでした。

特に強く反発したのが、宮舘涼太さんでした。「グループのことより勉強が大事か?」。宮舘さんの言葉は、阿部さんの心に深く突き刺さりました。

宮舘さんの怒りは理解できるものでした。Mis Snow Manは8人組のユニットです。メンバーが一人欠ければ、フォーメーションも変わり、パフォーマンスの質にも影響します。

特に阿部さんは、グループの中でも重要なポジションを担っていました。その阿部さんが、受験勉強のために抜けるというのです。

他のメンバーも、多かれ少なかれ同じことを思っていました。阿部さん自身も後にこう語っています。「メンバー全員が多かれ少なかれ、同じことを思ったと思うんです」

この状況は、阿部さんを深く傷つけました。自分はグループを裏切っているのではないか。仲間を見捨てているのではないか。

そんな自責の念に苛まれました。しかし、それでも阿部さんは決断を変えませんでした。

阿部さんには、明確な信念がありました。「芸能活動と学業の両立」です。どちらか一方を選ぶのではなく、両方を大切にする。

それが阿部さんの生き方でした。今、一時的に芸能活動を休止するのは、将来また戻ってくるための準備期間なのです。

両立へのこだわりと信念

阿部さんの両立へのこだわりは、単なる欲張りではありませんでした。それは、アイデンティティの問題だったのです。

ジャニーズに入った時から、阿部さんは自分には取り柄がないと感じていました。歌もダンスも、周りのメンバーの方が上手い。ルックスも、もっとかっこいいメンバーがいる。では、自分の武器は何なのか。

その答えが「勉強」でした。高校時代から、阿部さんは「勉強を自分の武器にしよう」と考えていたと語っています。ジャニーズの中で、学業で秀でることが、自分の存在価値なのだと。

だからこそ、阿部さんは学業を疎かにできませんでした。「ジャニーズだから」という言い訳をして勉強をサボることは、自分の存在価値を否定することになるのです。

また、大学の教員からも様々なアドバイスを受けていました。「大学一本でいった方が将来役立つ」。確かに、芸能界は不確実な世界です。

いつ仕事がなくなるかわかりません。一方、大学で学問を極めれば、研究者や技術者として安定した将来が待っています。

しかし阿部さんは、そのアドバイスに従いませんでした。「だけど僕にとっては芸能活動も学業も大事。もし『どちらに比重を置いているのか』と聞かれたら、『どちらも』と言えるよう努力したつもりです」

この言葉には、阿部さんの強い意志が表れています。どちらか一方を選ぶのではなく、両方を全力で取り組む。それが、自分の生き方なのだと。

1日12時間の猛勉強の日々

阿部亮平の高校は偏差値68の駒場高校!芸能活動休止してまで挑んだ大学受験と両立の苦悩

芸能活動を休止した阿部さんは、受験勉強に全力を注ぎました。多い日には1日12時間勉強したといいます。朝から晩まで、休憩を挟みながらも、ひたすら机に向かい続けました。

12時間の勉強は、想像以上に過酷です。集中力を保ち続けることは困難で、途中で眠くなったり、飽きたり、気が散ったりします。

しかし阿部さんは、自分に厳しくルールを課しました。

勉強の内容も工夫しました。ただ闇雲に勉強するのではなく、効率的な方法を模索したのです。その一つが「暗記ノート」でした。

重要事項を自分なりにまとめたノートを作り、すきま時間に見返す。電車の中、食事の後、寝る前。あらゆるすきま時間を活用して、知識を吸収していきました。

科目ごとに戦略も立てました。得意な数学と理科は、応用問題を中心に解く。苦手な国語と社会は、基礎から丁寧に固める。

英語は、毎日長文を読むことを習慣化する。こうした計画的な学習が、阿部さんの学力を着実に向上させていきました。

しかし、勉強だけの日々は、阿部さんにとって辛いものでもありました。仲間たちはステージで輝いている。自分は一人、机に向かっている。この対比は、時に孤独感と疎外感をもたらしました。

それでも、阿部さんは目標を見失いませんでした。今は我慢の時期。合格したら、また仲間たちと一緒にステージに立てる。その日を信じて、阿部さんは勉強を続けたのです。

大学受験と第一志望不合格の挫折

志望校選びの葛藤

受験勉強に励む中、阿部亮平さんは志望校を決めなければなりませんでした。偏差値68の駒場高校の生徒として、また自分の学力を考えれば、難関大学を目指すことは自然な選択でした。

阿部さんが専攻として選んだのは、理工学部でした。幼稚園時代から理系科目が好きだった阿部さんにとって、理工学部は当然の選択です。特に情報工学に興味があり、人とコンピューターテクノロジーの関わり合いを学びたいと考えていました。

理工学部のある難関大学といえば、いくつかの候補が挙がります。国立大学なら東京工業大学、私立大学なら早稲田大学、慶應義塾大学、東京理科大学などです。

阿部さんの第一志望がどの大学だったかは、公式には明かされていません。しかし、いくつかの手がかりから推測することができます。

まず、阿部さんは「嵐」の櫻井翔さんを尊敬していることを公言しています。櫻井さんは慶應義塾大学出身で、ジャニーズきってのインテリタレントとして知られています。

阿部さんが櫻井さんに憧れていたとすれば、同じ慶應義塾大学を目指した可能性は高いでしょう。

また、早稲田大学も有力な候補です。早稲田の理工学部は日本屈指のレベルで、多くの優秀な技術者や研究者を輩出しています。

阿部さんの学力と志向性を考えれば、早稲田を目指すのも自然です。

東京工業大学は、理系の最難関国立大学です。レベル的には非常に高く、合格するのは至難の業です。しかし、阿部さんほどの努力家なら、挑戦した可能性もゼロではありません。

いずれにせよ、阿部さんは難関大学を第一志望とし、それに向けて猛勉強を続けていました。そして、受験シーズンが到来したのです。

第一志望不合格という現実

受験の結果、阿部亮平さんは第一志望の大学に不合格となりました。このことは、阿部さん自身が後に明かしています。

長い間の努力、芸能活動の休止、仲間との確執。すべてを乗り越えて挑んだ受験でしたが、結果は不合格でした。

不合格の知らせを受けた時、阿部さんはどんな気持ちだったでしょうか。落胆、悔しさ、そして自責の念。「もっと勉強すればよかった」「あの問題が解けていれば」「芸能活動を休止したのに、意味がなかった」。様々な思いが、阿部さんの心を襲ったはずです。

特に辛かったのは、批判してきたメンバーたちへの申し訳なさでしょう。「グループより勉強が大事か」と言われ、それでも受験を選んだ。

その結果が不合格では、何のための休止だったのかと思われても仕方ありません。

しかし、阿部さんには滑り止めとして受験していた大学がありました。それが上智大学です。上智大学理工学部情報理工学科は、偏差値60のやや難関レベル。阿部さんはこの大学に合格していました。

第一志望ではなかったとはいえ、上智大学は日本を代表する名門私立大学です。カトリック系の大学として知られ、国際的な雰囲気と高い教育水準を誇ります。

理工学部も優秀な研究実績があり、多くの卒業生が技術者や研究者として活躍しています。

阿部さんは、上智大学への進学を決めました。第一志望ではなかったとはいえ、ここで学べることに価値を見出そうと決意したのです。

挫折から学んだ教訓

第一志望不合格という挫折は、阿部亮平さんに重要な教訓を与えました。後に阿部さんはインタビューで、受験期についてこう語っています。

「受験期は自分の中でも特別です。本当に苦しかった。でも、あの経験があって、勉強に限らずにいろんなことを乗り越えられてきました」

苦しい経験は、人を成長させます。阿部さんは、第一志望に落ちるという挫折を経験することで、失敗からどう立ち直るか、どう次のステップに進むかを学んだのです。

また、「完璧でなくてもいい」ということも学びました。小学生の頃、阿部さんはすべての科目で100点を取りたいと思っていた完璧主義者でした。

しかし、第一志望不合格という「完璧ではない」結果を経験することで、失敗を受け入れる柔軟性も身につけたのです。

さらに、この経験は阿部さんに謙虚さをもたらしました。どんなに努力しても、報われないことがある。思い通りにいかないことがある。

その現実を受け入れることで、阿部さんはより成熟した人間になっていきました。

上智大学進学という新たなスタート

阿部亮平の高校は偏差値68の駒場高校!芸能活動休止してまで挑んだ大学受験と両立の苦悩

2012年4月、阿部亮平さんは上智大学理工学部情報理工学科に入学しました。第一志望ではなかったとはいえ、新しい学びの場に期待を膨らませていたことでしょう。

上智大学のキャンパスは、東京都千代田区紀尾井町にあります。最寄り駅は四ッ谷駅で、都心の真ん中という立地です。

国際色豊かな大学で、外国人留学生も多く、英語での授業も充実しています。

理工学部情報理工学科では、コンピューターサイエンスの基礎から応用まで、幅広く学びます。

プログラミング、アルゴリズム、データベース、ネットワーク、人工知能など、現代社会に不可欠な技術を習得します。

阿部さんが特に興味を持っていたのは、「人とコンピューターテクノロジーの関わり合い」でした。

ヒューマン・コンピュータ・インタラクション(HCI)と呼ばれる分野で、コンピューターをいかに人間にとって使いやすくするかを研究する学問です。

大学入学と同時に、阿部さんは芸能活動を再開しました。約半年間の休止期間を経て、再びMis Snow Manのメンバーとして活動を始めたのです。

メンバーたちは、阿部さんの復帰を歓迎してくれました。特に宮舘さんとは、大学進学を祝福してもらったことで和解し、以前よりも強い絆で結ばれるようになりました。

こうして、阿部さんの新しい挑戦が始まりました。大学での学び、そしてSnow Manとしての活動。この二つを両立させる戦いは、高校時代以上に厳しいものになるのです。

高校時代が築いた現在の阿部亮平

阿部亮平の高校は偏差値68の駒場高校!芸能活動休止してまで挑んだ大学受験と両立の苦悩

両立の経験が生んだプロ意識

阿部亮平さんの高校時代は、まさに「文芸両道」の戦いでした。偏差値68の進学校での学業と、Mis Snow Manのメンバーとしての芸能活動。この二つを両立させることは、想像を絶する困難でした。

しかし、この経験が阿部さんに与えたものは計り知れません。まず、時間管理能力です。限られた時間の中で、学業と芸能活動の両方をこなすには、徹底的な時間管理が必要でした。

すきま時間の活用、効率的な勉強法、優先順位の付け方。これらすべてが、高校時代に培われました。

次に、精神力です。周囲からの批判、メンバーとの確執、第一志望不合格の挫折。数々の困難を乗り越えることで、阿部さんの精神は強靭なものになりました。

逆境に負けない心、目標に向かって突き進む意志。これらは、現在の阿部さんを支える大きな力となっています。

さらに、プロ意識も養われました。「ジャニーズだから」という言い訳をしない。どんなに忙しくても、やるべきことはきちんとやる。この姿勢は、高校時代に確立されたものです。

勉強を武器にしたキャリア戦略

高校時代から、阿部さんは「勉強を自分の武器にしよう」と考えていました。この戦略は、見事に成功しました。

大学在学中、阿部さんは合格率約5%という難関の気象予報士試験に合格しました。5回目のチャレンジでの合格でしたが、諦めずに挑戦し続けた結果です。

この資格取得により、阿部さんは「ジャニーズ初の気象予報士」として大きな話題を呼びました。

気象予報士の資格があることで、阿部さんは朝の情報番組「ZIP!」などで天気予報の解説をする仕事を得ました。

アイドルとしてだけでなく、専門知識を持つタレントとしての活躍の場が広がったのです。

さらに、大学卒業後は上智大学大学院に進学し、ジャニーズ事務所の所属タレントとして初めて大学院生となりました。

修士課程を修了したことで、「嵐」の櫻井翔さんから食事に誘われ、腕時計のプレゼントをもらったというエピソードもあります。

こうした学歴は、クイズ番組への出演機会を増やしました。「ミラクル9」「ザ・タイムショック」などで活躍し、「Snow Manの頭脳」としての地位を確立したのです。

阿部さん自身も「勉強は結果的に仕事につながる」と述べています。高校時代に立てた戦略は、見事に実を結んだのです。

メンバーとの絆が深まった理由

高校3年生の夏、芸能活動休止をめぐって生じたメンバーとの確執は、後に逆に絆を深める結果となりました。

特に宮舘涼太さんとの関係は、一度壊れかけたからこそ、修復後はより強固なものになったのです。

宮舘さんは当初、阿部さんの休止決断を「許せない」と思っていました。しかし、阿部さんが大学に合格し、そして大学院にまで進学したことを知ると、その努力と信念を認めるようになりました。

大学院進学を祝福してくれたことを、阿部さんは「嬉しかった」と語っています。

お互いに異なる価値観を持ちながらも、それを尊重し合う。この経験が、Snow Manというグループの結束力を高めました。

阿部さんは学業を重視し、他のメンバーは芸能活動に専念する。それぞれの道を認め合うことで、グループとしての多様性も生まれたのです。

2020年、Snow Manは「SixTONES」とともにメジャーデビューしました。阿部さんと深澤辰哉さんは、ジャニーズ史上最長の15年間の下積みを経てのデビューとなりました。長い下積み時代を支えたのは、高校時代に培った精神力と、メンバーとの強い絆だったのです。

駒場高校が育てた知的好奇心

偏差値68の駒場高校に進学したことも、阿部さんにとって重要な意味がありました。進学校という環境は、阿部さんの知的好奇心をさらに刺激したのです。

駒場高校の同級生たちは、みな優秀で勉強熱心でした。彼らと切磋琢磨することで、阿部さんの学力も向上しました。また、様々な分野に興味を持つ生徒がいたことで、阿部さんの視野も広がりました。

高校時代に学んだ学習習慣は、大学、大学院と続く長い学生生活を支えました。効率的な勉強法、知識の体系化、論理的思考。これらすべてが、駒場高校での3年間で基礎が築かれたのです。

また、駒場高校は自由な校風でした。生徒の自主性を重んじる環境は、阿部さんが自分の道を選ぶ力を育てました。

周囲に流されず、自分の信念を貫く。この姿勢は、駒場高校の教育理念とも一致するものでした。

まとめ:高校時代の選択が作り上げた唯一無二のアイドル

阿部亮平さんの高校時代は、決して平坦なものではありませんでした。偏差値68の駒場高校での学業、Mis Snow Manのメンバーとしての芸能活動、そして大学受験のための芸能活動休止。これらすべてが、阿部さんを苦しめ、そして成長させました。

特に高校3年生の夏、芸能活動を休止するという決断は、阿部さんの人生における最も重要な岐路でした。メンバーからの批判、孤立、そして自責の念。

それでも信念を曲げなかった阿部さんの姿勢が、今の彼を作り上げたのです。

第一志望の大学に不合格という挫折も、阿部さんにとって貴重な経験でした。完璧ではない自分を受け入れ、失敗から学ぶ。

この経験が、阿部さんに謙虚さと粘り強さをもたらしました。

高校時代に培った「勉強を武器にする」という戦略は、見事に成功しました。上智大学、上智大学大学院、気象予報士、世界遺産検定2級。これらの学歴と資格が、阿部さんのキャリアに大きな幅を与えています。

Snow Manとしてメジャーデビューを果たした今、阿部さんは「ジャニーズきってのインテリ」として独自のポジションを確立しています。

クイズ番組での活躍、天気予報の解説、そしてアイドルとしてのパフォーマンス。すべてが、高校時代の選択と努力の結果なのです。

阿部亮平さんの高校時代の物語は、「両立」の可能性を示しています。芸能活動か学業か、という二者択一ではなく、両方を全力で取り組む。

それは決して容易な道ではありませんが、不可能でもありません。阿部さんの姿は、同じように両立を目指す多くの人々に、希望と勇気を与え続けているのです。

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