優里の高校時代!成城高校を5ヶ月で中退した理由と音楽に目覚めたバンド経験

「ドライフラワー」「かくれんぼ」「ピーターパン」などの大ヒット曲で知られるシンガーソングライター・優里さん。

その確かな歌唱力と心に響く歌詞、そしてストリートからメジャーへと駆け上がったサクセスストーリーは、多くの音楽ファンを魅了しています。

しかし、現在の輝かしい姿とは裏腹に、優里さんの高校時代は挫折と迷走に満ちたものでした。

偏差値65の難関進学校・成城高校に入学したものの、わずか5ヶ月で中退。その後は遊びとアルバイトに明け暮れる日々を送っていたのです。

それでも、この混沌とした高校時代こそが、優里さんを音楽の道へと導く重要な時期でもありました。

ギターで挫折し、ボーカルとして再出発した経験。洋楽ロックバンドに熱中し、歌うことの喜びに目覚めた瞬間。高校という枠組みからは脱落したものの、音楽という生涯の伴侶を見つけた青春時代。

この記事では、優里さんの高校時代を徹底的に掘り下げます。

なぜ難関校を中退したのか、中退後はどのように過ごしていたのか、そしてどのようにして音楽の道を見出したのか。時系列に沿って、彼の青春の軌跡をたどります。

優里の学歴の全体像と成城高校入学までの道のり

千葉県幕張で過ごした少年時代

優里さんは1994年3月23日、千葉県千葉市で生まれました。本名は木村優里(きむら ゆうり)。家族構成は両親と妹の4人家族で、幕張という音楽やエンターテインメントに恵まれた環境で育ちました。

幕張といえば、幕張メッセで頻繁に大型音楽フェスやアーティストのライブが開催される場所として知られています。

夏にはロックフェスが開催され、近くにはディズニーランドや千葉ロッテマリーンズの本拠地ZOZOマリンスタジアムもあります。優里さんは子供の頃から、こうしたエンターテインメントに囲まれた環境で育ったのです。

小学生の頃から、優里さんは音楽が大好きでした。学習塾への行き帰りの道中でも、CDウォークマンで歌を聴いていたといいます。

しかも、当時聴いていたのは日本のアーティストではなく、洋楽ロックバンドでした。

母親が洋楽ロック、特にイケメンのロックバンドが好きだったことが、優里さんの音楽の原点です。

Bon Jovi、Queen、The Offspringなど、海外のロックバンドを幼い頃から聴いて育ちました。この影響は強烈で、優里さんは後にこう語っています。

「母親が洋楽のロックが好きで。たぶん、イケメンが好きなんですよ(笑)。ジョン・ボン・ジョヴィとか、顔もカッコいいじゃないですか。もちろん曲や歌もよくて、僕もすごく好きになって、カラオケでも歌ってました。周りの友達とは話が合わなかったけど(笑)」

小学生がBon JoviやQueenを熱心に聴いているというのは、かなり珍しいケースです。同級生たちが日本のポップスやアニメソングを聴いている中、優里さんは一人、洋楽ロックに夢中になっていました。

カラオケでも洋楽を歌っていたため、友達とは音楽の話が合わなかったといいます。

この「周りと違う」という感覚は、後の優里さんの人生にも影響を与えていくことになります。

人と同じことをするのではなく、自分が本当に好きなものを追求する。その姿勢の原点が、小学生時代の洋楽体験にあったのかもしれません。

成城中学校への進学と学業優秀な側面

優里の高校時代!成城高校を5ヶ月で中退した理由と音楽に目覚めたバンド経験

小学校卒業後、優里さんは東京都新宿区にある私立・成城中学校に進学しました。この学校は1885年開校の伝統ある男子校で、完全中高一貫教育を行っています。

偏差値は58程度で、中堅から上位レベルの進学校です。

成城中学校・成城高校は、よく混同されがちですが、芸能人が多く通う成城大学の系列校である「成城学園」とは全く別の学校です。

成城高校は戦前、軍関係者の子息が多く通った伝統校で、現在も堅実な進学実績を持つ学校として知られています。

優里さんが幕張から新宿の成城中学校まで通学していたとすれば、毎日1時間以上の通学時間がかかっていたはずです。

それでもこの学校を選んだのは、学業面での高い目標があったからでしょう。あるいは、家族の教育方針で私立の進学校を選んだのかもしれません。

成城中学校は完全中高一貫校で、基本的には中学から入学した生徒がそのまま高校に内部進学します。

優里さんも、この6年間の一貫教育を受ける予定で入学したと考えられます。当時は高校からの外部募集もありましたが、大半の生徒は中学から内部進学していました。

中学時代の優里さんについての詳しい情報は少ないのですが、いくつかの事実から当時の様子を推測することができます。

まず、成城中学校に合格するだけの学力を持っていたこと。これは、優里さんが学業面で優秀だったことを示しています。

また、中学時代も洋楽を聴き続けていたことは間違いありません。小学生時代からの趣味は継続しており、カラオケでも洋楽を歌っていたでしょう。

ただし、この頃はまだ「自分が歌手になる」という明確なビジョンは持っていなかったようです。

中学3年間を成城中学校で過ごし、優里さんは内部進学で成城高校に進むことになります。このまま順調に進学校の道を歩めば、有名大学への進学、そして安定した将来が待っていたはずでした。しかし、運命は全く違う方向に進んでいきます。

成城高校入学とわずか5ヶ月での中退

優里の高校時代!成城高校を5ヶ月で中退した理由と音楽に目覚めたバンド経験

偏差値65の難関進学校への内部進学

2009年4月、優里さんは成城中学校から成城高校へ内部進学しました。成城高校の偏差値は65程度で、都内でも有数の難関進学校です。

多くの生徒が国公立大学や難関私立大学への進学を目指す、学業レベルの高い環境でした。

完全中高一貫校の内部進学ですから、優里さんは高校受験をすることなく、中学からそのまま持ち上がりで進学しました。

クラスメイトも中学時代から同じ顔ぶれが多く、環境の変化は最小限だったはずです。

それでも、高校という新しいステージは、優里さんにとって大きな転機となりました。

成城高校は、伝統と規律を重んじる学校です。校則も厳しく、生徒たちは学業に真剣に取り組むことが求められます。

多くの生徒が大学進学を目指し、放課後は予備校に通ったり、自習に励んだりしています。そんな雰囲気の中、優里さんは次第に違和感を覚え始めていました。

高校に入学する頃から、優里さんの中で音楽への興味がさらに強まっていました。小学生時代から聴いていた洋楽ロックに加えて、日本のロックバンドにも興味を持ち始めたのです。

特に「BUMP OF CHICKEN」の曲が好きで、ライブにも足を運んでいました。

「BUMP OF CHICKENが好きで、ライブにも行っていました。地元が幕張なので、幕張メッセでライブがあるときとか。途中で客席の真ん中あたりに、メンバーが来てくれるんですよ。近くに来たときに好きな曲をやってくれるとすごくうれしくて」

この時期、優里さんは「スピッツ」にもハマっており、横浜アリーナのライブにも行っています。音楽への情熱は日増しに強くなり、「音楽以外にやりたいことがない」とまで感じるようになっていました。

入学5ヶ月で決断した中退という選択

しかし、成城高校での生活は、優里さんにとって居心地の良いものではありませんでした。

進学校特有の受験に向けた雰囲気、周囲の生徒たちの学業への熱心さ、そして自分が本当にやりたいことへの強い欲求。これらが複雑に絡み合い、優里さんは大きな葛藤を抱えることになります。

そして入学からわずか5ヶ月後、優里さんは成城高校を中退するという大胆な決断を下しました。2009年9月頃のことです。

偏差値65の難関進学校に、中学から6年間通う予定だった生徒が、高校入学後たった5ヶ月で学校を去る。これは尋常ではない出来事でした。

中退の理由について、優里さん自身は詳しく語っていません。しかし、過去のTwitterアカウントには興味深い投稿が残されていました。「俺一個下の学年だったら普通の高校生活送れたと思う」という内容です。

この投稿から推測されるのは、同級生との間に何らかの問題や軋轢があったのではないかということです。

学年が違えば、つまり人間関係が違えば、うまくいっていたかもしれない。そう感じるほど、同級生との関係に悩んでいた可能性があります。

成城高校は男子校です。女子の目がない環境では、男子生徒同士の関係性が独特の雰囲気を生み出すことがあります。

グループの力学、上下関係、価値観の違い。こうした要因が、優里さんにとって耐え難いものだったのかもしれません。

また、進学校特有のプレッシャーも影響していた可能性があります。周囲の生徒たちが大学進学に向けて一心に勉強している中、優里さんの関心は音楽に向かっていました。

「音楽以外にやりたいことがない」と感じている生徒にとって、受験勉強中心の高校生活は苦痛以外の何物でもなかったでしょう。

さらに、優里さんは洋楽好きで、周囲とは音楽の趣味が合わなかった経験を小学生時代からしています。

高校でも同じように、自分の好きな音楽や価値観を共有できる友人が見つからなかったのかもしれません。孤立感や疎外感が、中退という決断を後押しした可能性は高いでしょう。

両親や周囲の反応と葛藤

偏差値65の進学校を5ヶ月で中退するという決断に、両親がどう反応したかは想像に難くありません。

おそらく、最初は猛反対されたことでしょう。せっかく中学から6年間通わせてきた私立校を、高校1年の途中で辞めるというのは、親にとっても大きなショックです。

学費の問題もあります。私立の中高一貫校の学費は決して安くありません。それを6年間支払う覚悟で子供を入学させたのに、高1の5ヶ月で辞めてしまう。経済的な損失も大きいものがあったはずです。

しかし、優里さんの決意は固かったのでしょう。説得されても、あるいは叱られても、学校に戻る気はありませんでした。「ここにいても自分のやりたいことはできない」という確信があったのかもしれません。

両親も、最終的には息子の決断を受け入れざるを得ませんでした。無理に学校に通わせても、本人が心を閉ざしていては意味がありません。

それよりも、息子が本当にやりたいことを見つけられるよう、見守ることを選んだのでしょう。

ただし、両親は一つの条件をつけた可能性が高いです。それは「高卒認定試験を受けること」です。

高校を中退しても、高卒認定試験に合格すれば、高校卒業と同等の学力があることが認定されます。これがあれば、将来大学に進学することも、就職する際にも不利になりません。

優里さんは後に高卒認定試験を受けて合格しています。このことから、中退後も完全に勉強を放棄したわけではなく、将来への最低限の備えはしていたことがわかります。偏差値65の高校に通えるだけの学力があった優里さんにとって、高卒認定試験の合格はさほど難しくなかったでしょう。

中退後の日々|遊びとアルバイトに明け暮れた時期

渋谷でたむろする生活と自由の代償

高校を中退した後、優里さんの生活は一変しました。毎日学校に通う必要もなく、時間は自由に使えます。しかし、その自由は同時に、方向性のない日々を意味していました。

過去のSNSの投稿から、当時の優里さんの生活ぶりがうかがえます。渋谷でたむろしたり、ウロウロしたり。

典型的な「フリーター」や「遊んでいる若者」の生活を送っていたようです。

朝は遅くまで寝て、昼過ぎに起き出す。特に予定もないので、友達に連絡を取って渋谷で待ち合わせ。

カラオケに行ったり、ゲームセンターで時間を潰したり、ファストフード店で何時間も喋ったり。そんな日々が続いていたと想像されます。

この時期、優里さんは様々なアルバイトもしていました。生活費を稼ぐ必要があったこと、そして時間を持て余していたことが理由でしょう。

どんなアルバイトをしていたか詳細は不明ですが、飲食店や小売店など、学生がよくやるような仕事をしていた可能性が高いです。

「バイト三昧」という言葉が当時のSNSにあったことから、複数のアルバイトを掛け持ちしていたのかもしれません。朝から夕方まで一つのバイト、夜は別のバイト。そして休みの日は渋谷で遊ぶ。そんな生活サイクルだったのでしょう。

一見すると自由で楽しそうな生活ですが、実際には大きな不安も抱えていたはずです。同級生たちは高校に通い、将来に向けて着実に歩みを進めている。

一方、自分は学校も辞めて、アルバイトをしながら遊んでいる。この対比は、優里さんに焦りや劣等感をもたらしていたかもしれません。

音楽への情熱が芽生え始めた瞬間

しかし、この混沌とした時期が、優里さんを音楽の道へと導くことになります。学校という枠組みから離れ、自由な時間を持ったことで、優里さんは自分が本当に好きなことに向き合う機会を得たのです。

高校時代から好きだったBUMP OF CHICKENやスピッツ。そして小学生時代から聴いていた洋楽ロック。

これらの音楽を、優里さんは改めて深く聴くようになりました。単に聴くだけでなく、歌詞の意味を考えたり、メロディの構成を分析したり、より深いレベルで音楽と向き合うようになったのです。

カラオケにも頻繁に行きました。友達と行くこともあれば、一人で行くこともありました。

一人カラオケでは、誰にも気兼ねなく、自分の好きな曲を何時間でも歌い続けることができます。

洋楽ロック、日本のロックバンド、そしてディズニーの曲。優里さんは様々なジャンルの曲を歌い込んでいきました。

「その頃からさらに歌が好きになって、どんどん楽しくなって。家でもずっと歌ってましたね。洋楽とか、ディズニーの曲とか」

この言葉通り、優里さんは家でも歌うようになりました。風呂場で、部屋で、一人になれる場所で、常に歌っていたのです。

歌うことが、単なる趣味を超えて、生活の一部、あるいは生きる理由のようなものになっていきました。

この時期、優里さんの中で「音楽で生きていきたい」という漠然とした思いが形になり始めていました。

学校には行っていないけれど、音楽がある。アルバイトは面倒だけれど、歌っている時は楽しい。そんな気持ちが、次第に明確な目標へと変わっていったのです。

高校時代のバンド経験|ギターからボーカルへの転身

ロックバンドへの憧れとギターへの挑戦

高校時代、優里さんは友達とバンドを組むことになりました。当時の優里さんの音楽の趣味は、主に洋楽ロックバンドでした。

Bon Jovi、Queen、The Offspring、Green Dayなど、ギターがかっこいいロックバンドに憧れていたのです。

そのため、優里さんが最初に選んだパートは、歌ではなくギターでした。ロックバンドの花形はギタリスト。

かっこいいギターソロを弾き、ステージで観客を魅了する。そんなギタリストの姿に、優里さんは強く憧れていたのです。

早速エレキギターを購入し、練習を始めました。最初は簡単なコードから。しかし、ギターは想像以上に難しい楽器でした。

指が痛くなり、思うように音が出ない。コードチェンジがスムーズにできず、曲のテンポについていけない。

それでも、優里さんは諦めずに練習を続けました。毎日ギターに触り、少しずつ上達を目指しました。バンドメンバーも決まり、いよいよ初めてのライブに向けて練習が本格化していきます。

初ライブでのクビという屈辱的な経験

そして迎えた初ライブ。優里さんにとって、人生初めてのステージでした。緊張と興奮の中、バンドのメンバーとしてステージに立ちます。しかし、結果は散々なものでした。

優里さんのギターは、全然弾けていませんでした。コードは間違うし、リズムはずれるし、音は外れる。他のメンバーの演奏についていけず、曲全体がめちゃくちゃになってしまいました。

ライブを見ていた観客も、明らかに演奏のひどさに気づいていたでしょう。

ライブ後、バンドメンバーから厳しい判断が下されました。優里さんは、たった1回のライブでギタリストをクビになってしまったのです。これは、15歳の少年にとって大きな屈辱でした。

憧れていたギタリスト。かっこいいロックバンドの一員になる夢。それらすべてが、たった一度のライブで打ち砕かれました。

優里さんは深く傷つき、音楽から離れようとさえ考えたかもしれません。

しかし、この挫折が、優里さんの人生を大きく変えることになります。ギターでは失敗したものの、そのライブには希望の光が隠されていたのです。

先輩からの声かけとボーカルとしての再スタート

優里さんのギター演奏は散々でしたが、ライブを観ていた先輩が、あることに気づいていました。

それは、優里さんのコーラスの美しさです。ギターを弾きながら、優里さんは小さな声でコーラスを入れていました。それが、非常に良い声だったのです。

ライブ後、その先輩が優里さんに声をかけました。「ギターは下手だったけど、コーラスは良かったよ。うちのバンドでボーカルやってみないか?」

この声かけが、優里さんの運命を変えました。ギタリストとしてクビになった優里さんでしたが、ボーカルとして新しいチャンスを得たのです。

最初は戸惑いもありました。自分の歌が本当に良いのか、自信が持てなかったからです。

しかし、先輩の誘いを断る理由もありませんでした。音楽を続けたい。バンドの一員でいたい。その思いから、優里さんはボーカルとして新しいバンドに加入することを決めました。

新しいバンドでは、The OffspringやGreen Dayといった洋楽パンクロックをコピーしていました。

これらは、優里さんが小学生の頃から聴いていた音楽です。母親の影響で育った洋楽ロックを、今度は自分が歌う立場になったのです。

ボーカルとして目覚めた歌への情熱

ボーカルとして活動を始めた優里さんは、歌うことの楽しさに目覚めていきました。ギターは思うように弾けませんでしたが、歌は違いました。

自然に声が出て、メロディに乗せて感情を表現できる。これは、優里さんにとって驚きの発見でした。

練習を重ねるごとに、優里さんの歌はどんどん上達していきました。最初は恥ずかしさもありましたが、次第に自信を持って歌えるようになっていきます。

バンドメンバーからも「良い声だね」「上手くなったね」と褒められることが増えました。

ライブでの経験も積んでいきました。小規模なライブハウスでの演奏が中心でしたが、ステージで歌う経験は優里さんを成長させました。

観客の反応を感じながら歌うこと、マイクを通して自分の声が会場に響くこと。これらすべてが、優里さんに大きな充実感をもたらしました。

「その頃からさらに歌が好きになって、どんどん楽しくなって。家でもずっと歌ってましたね」

この言葉の通り、優里さんは家でも常に歌うようになりました。風呂で歌い、部屋で歌い、一人になれる場所ではいつも歌っている。歌うことが、優里さんの生活の中心になっていったのです。

バンド活動を通じて、優里さんは音楽仲間も増えていきました。同じように音楽が好きで、ライブハウスで演奏する若者たち。

学校では見つけられなかった「自分と同じ価値観を持つ仲間」を、音楽シーンで見つけることができたのです。

高校を中退し、学校という居場所を失った優里さん。しかし、音楽という新しい居場所を見つけました。そして、歌うことこそが自分の天職だという確信を深めていったのです。

洋楽からBUMP OF CHICKENへの傾倒

バンド活動を続ける中で、優里さんの音楽的な嗜好にも変化が起きていきました。小学生時代から聴いていた洋楽ロックに加えて、日本のロックバンドにも深く傾倒するようになったのです。

特に大きな影響を受けたのが、BUMP OF CHICKENでした。優里さんはBUMP OF CHICKENの大ファンで、ライブにも足を運んでいました。

地元が幕張ということもあり、幕張メッセでライブがある時は必ず行っていたといいます。

「BUMP OF CHICKENが好きで、ライブにも行っていました。地元が幕張なので、幕張メッセでライブがあるときとか。途中で客席の真ん中あたりに、メンバーが来てくれるんですよ。近くに来たときに好きな曲をやってくれるとすごくうれしくて」

BUMP OF CHICKENのライブでの体験は、優里さんに大きな感動を与えました。ステージと観客が一体となる瞬間、何千人もの観客が同じ曲を歌う光景。

メンバーが客席に降りてきて、間近でパフォーマンスを見せてくれる興奮。これらすべてが、優里さんの心に深く刻まれました。

BUMP OF CHICKENの歌詞は、若者の心情を繊細に描いています。将来への不安、孤独、葛藤、そして希望。高校を中退し、将来に迷っていた優里さんにとって、これらの歌詞は自分自身の気持ちを代弁してくれるものでした。

また、スピッツも好きで、横浜アリーナのライブにも足を運んでいます。スピッツの優しいメロディと、どこか切ない歌詞も、優里さんの心に響いたのでしょう。

洋楽ロックから日本のロックバンドへ。優里さんの音楽的な幅は、高校時代のバンド経験を通じて大きく広がっていきました。そして、様々な音楽を吸収する中で、自分なりの音楽性を模索し始めていたのです。

高卒認定試験の合格と専門学校・音大への進学

優里の高校時代!成城高校を5ヶ月で中退した理由と音楽に目覚めたバンド経験

高卒認定試験への挑戦と合格

高校を中退した優里さんでしたが、完全に学業を放棄したわけではありませんでした。

両親との約束、あるいは自分自身の将来への備えとして、優里さんは高卒認定試験(高等学校卒業程度認定試験)を受験しました。

高卒認定試験は、高校を卒業していない人が、高校卒業と同等以上の学力があることを認定するための試験です。

合格すれば、大学や専門学校への入学資格が得られ、就職する際にも高卒と同等に扱われます。

優里さんは偏差値65の成城高校に通えるだけの学力を持っていました。そのため、高卒認定試験の合格は、それほど困難ではなかったはずです。

必要な科目を勉強し、試験を受け、見事合格しました。

この合格によって、優里さんには新しい選択肢が開かれました。大学に進学することも、専門学校に通うことも可能になったのです。

高校を中退したという「失敗」を、高卒認定試験の合格によって一定程度挽回したとも言えます。

音楽大学への進学という選択

2012年4月、18歳になった優里さんは、音楽大学に進学しました。高校時代のバンド経験を通じて、音楽への情熱を深めた優里さんにとって、音楽を学べる環境は魅力的でした。

ただし、優里さんが進学した音楽大学の詳細は明らかになっていません。過去のTwitterには「音大に通っている」という記述がありますが、具体的な大学名は伏せられています。

音楽大学といえば、東京芸術大学、国立音楽大学、東京音楽大学、桐朋学園大学などの難関校が有名です。

しかし、優里さんはクラシック音楽を本格的に学んだことはなかったと語っています。これらの難関音楽大学に入学するには、ピアノや声楽などの高度な実技試験をクリアする必要があり、クラシックの基礎がない優里さんには困難だったはずです。

そのため、優里さんが進学したのは、比較的入学しやすい音楽大学だったと推測されます。

ポピュラー音楽やジャズを学べるコース、あるいは音楽制作や音楽ビジネスを学べるコースがある大学だった可能性が高いでしょう。

地理的な条件から考えると、東京都台東区にある上野学園大学音楽学部や、千葉県松戸市にある聖徳大学音楽学部などが候補として挙がります。これらの大学は、後述する専門学校とのダブルスクールも可能な距離にあります。

わずか1年で音大を中退した理由

しかし、優里さんの音大生活は長くは続きませんでした。入学からわずか1年ほどで、優里さんは音楽大学を中退してしまったのです。これで、高校に続いて二度目の中退となりました。

音大を中退した理由について、優里さんの過去のTwitterには興味深い投稿が残されています。入学してわずか1ヶ月後の2012年5月、「音大とか念願だったのにちげえわ」とツイートしているのです。

この投稿からは、優里さんの失望感が伝わってきます。「念願だった」音楽大学。音楽を学べることに期待して入学したのに、実際に通ってみると、自分が思い描いていたものとは違っていた。そのギャップに、優里さんは早くも気づいていたのです。

音大で何が「違った」のか、詳しくは語られていません。しかし、いくつかの推測はできます。まず、カリキュラムの内容です。

音大では、楽典や音楽史、ソルフェージュなど、理論的な科目も多く学びます。優里さんが求めていたのは、もっと実践的な、歌うことやバンド活動に直結する学びだったのかもしれません。

また、クラシック音楽中心の教育も、優里さんには合わなかった可能性があります。洋楽ロックやJ-ROCKが好きな優里さんにとって、クラシック音楽の技法を延々と学ぶことは退屈だったかもしれません。

さらに、周囲の学生との温度差もあったでしょう。音大に通う学生の多くは、幼い頃から楽器を習い、音楽の英才教育を受けてきた人たちです。

一方、優里さんは高校時代にバンドを始めたばかりで、音楽の基礎教育をほとんど受けていません。この差は、授業についていくことを困難にしたかもしれません。

1年で中退を決めたということは、1年間通っても状況が改善しなかったということです。最初は「我慢すれば慣れるかも」と思っていたものの、結局最後まで音大での学びに価値を見出せなかった。そう判断した優里さんは、再び学校を去る決断をしたのです。

東京福祉専門学校での学びと介護福祉士資格

音大には通わなくなりましたが、優里さんはもう一つの学校には通い続けていました。それが、東京都江戸川区西葛西にある東京福祉専門学校です。

優里さんは、この専門学校のケアワーク学科夜間コースに在籍していました。

音大と専門学校のダブルスクール。昼は音大で音楽を学び、夜は専門学校で介護を学ぶ。これは非常にハードなスケジュールです。なぜ優里さんは、こんな厳しい生活を選んだのでしょうか。

優里さん自身の言葉によれば、介護士になりたかったわけではなく、「資格を持っていれば何があっても食いっぱぐれることはない」という理由で専門学校に入学したそうです。つまり、将来への保険として、介護福祉士の資格を取得しようと考えたのです。

この考え方は、非常に現実的です。音楽で成功する保証はありません。音大に通っても、音楽の道で食べていける人はごくわずかです。

しかし、介護福祉士の資格があれば、日本全国どこでも仕事を見つけることができます。高齢化社会の日本では、介護職は常に人手不足で、資格があれば確実に就職できるのです。

優里さんは、音楽への情熱と、現実的な将来設計の両方を持っていました。音楽の夢は追いたい。しかし、もし失敗した時のために、確実な資格も取っておきたい。そのバランス感覚が、ダブルスクールという選択につながったのでしょう。

過去のTwitterには、専門学校での勉強についての投稿もあります。2014年1月、「介護保険のテスト再試なんだけど教科書綺麗すぎて俺何してたのって気持ちになる。介護向いてないことをまた実感させられた……」というツイートです。

この投稿からは、優里さんが介護の勉強に真剣に取り組んでいなかったことがわかります。

教科書がきれいなまま、つまりほとんど開いていないということは、勉強をサボっていたということです。そして、「介護向いてない」と自覚もしています。

それでも、優里さんは専門学校をしっかりと卒業し、介護福祉士の資格を取得しました。向いていないと思いながらも、資格取得という目標は達成したのです。この粘り強さは、優里さんの性格を表しています。

専門学校に通いながら、優里さんは介護のアルバイトも経験していました。実際に高齢者と接し、介護の現場を体験することで、より実践的なスキルを身につけました。

高校時代の経験が現在の優里につながっている

挫折と再挑戦が育てた精神力

優里さんの高校時代は、挫折の連続でした。難関進学校を5ヶ月で中退。ギタリストとして1回のライブでクビ。音大も1年で中退。普通に考えれば、これらはすべて「失敗」です。

しかし、優里さんはこれらの失敗から逃げませんでした。むしろ、失敗を受け入れ、そこから学び、新しい道を模索し続けました。

高校を辞めた後、遊びとアルバイトに明け暮れながらも、音楽への情熱は失わなかった。ギターでクビになった後、ボーカルとして再挑戦した。音大が合わなければ、専門学校で別の道も用意した。

こうした経験が、優里さんの精神力を鍛えました。失敗を恐れない勇気、何度でも立ち上がる粘り強さ、そして自分の道を信じる強さ。

これらは、後のシンガーソングライターとしての活動においても、大きな武器となっています。

バンド経験が培った音楽的基礎

高校時代のバンド経験は、優里さんの音楽的基盤を作りました。The Offspring、Green Day、BUMP OF CHICKEN、スピッツ。

様々なバンドの曲をコピーし、歌い、ライブで演奏する。こうした実践を通じて、優里さんは音楽の構造、メロディの作り方、歌詞の表現方法を学んでいきました。

特に重要なのは、ボーカルとしての基礎を築いたことです。ギターでの挫折があったからこそ、ボーカルとして開花できました。

もしギターが上手く弾けていたら、優里さんは今でもギタリストとして活動していたかもしれません。そして、あの美しい歌声を世界に届けることはなかったでしょう。

失敗があったからこそ、今の成功がある。これは優里さんの人生を貫くテーマです。

洋楽ロックから学んだ音楽性

小学生時代から聴いていた洋楽ロックは、優里さんの音楽性の根幹を形作っています。

Bon Jovi、Queenといった伝説的なロックバンドから、優里さんは力強いボーカル、感情を込めた歌い方、そして観客を魅了するステージパフォーマンスを学びました。

優里さんの楽曲を聴くと、J-POPでありながら、どこか洋楽ロックのテイストを感じさせる部分があります。メロディの構成、コード進行、そして歌い方。これらすべてに、幼い頃から親しんできた洋楽ロックの影響が現れているのです。

高校中退という決断の意味

優里の高校時代!成城高校を5ヶ月で中退した理由と音楽に目覚めたバンド経験

振り返ってみれば、優里さんが成城高校を中退したことは、彼の人生にとって正しい選択だったと言えます。

もし高校を続け、大学に進学し、普通のサラリーマンになっていたら、今の優里さんは存在しません。

高校を辞めたことで、優里さんは自由な時間を手に入れました。その時間を音楽に費やし、バンド活動に打ち込み、歌うことの喜びを発見しました。

学校という枠組みに縛られていたら、この発見はなかったかもしれません。

もちろん、高校中退というのはリスクの高い選択です。多くの場合、中退は人生の選択肢を狭めます。

しかし優里さんの場合、中退が新しい可能性を開いたのです。これは、優里さんが中退後も諦めず、自分の道を模索し続けたからこそ実現したことです。

専門学校での学びが与えた現実感覚

東京福祉専門学校で介護福祉士の資格を取得したことも、優里さんにとって重要な経験でした。

音楽だけでなく、実用的な資格も持っているという安心感は、音楽活動に専念するための心理的な支えとなったはずです。

また、介護の現場でのアルバイト経験は、優里さんに人間理解を深める機会を提供しました。

高齢者と接し、その人生の物語を聞き、喜びや悲しみに触れる。こうした経験は、歌詞を書く際の感情表現に深みを与えているでしょう。

優里さんの歌詞は、人間の心情を繊細に描写します。

孤独、別れ、後悔、そして希望。これらのテーマを説得力を持って歌えるのは、単に音楽の才能だけでなく、人生経験の豊かさがあるからです。

まとめ:高校時代の挫折が生んだシンガーソングライター・優里

優里さんの高校時代は、決して順風満帆ではありませんでした。偏差値65の進学校を5ヶ月で中退、バンドではギタリストとしてクビ、音大も1年で中退。客観的に見れば、失敗だらけの青春時代です。

しかし、これらの挫折こそが、優里さんを今の場所に導きました。高校を辞めたことで音楽に向き合う時間を得て、ギターでの失敗がボーカルとしての才能を開花させ、音大での違和感が独自の音楽性を育てました。

2019年、優里さんは路上ライブを始めました。そして同年、MY FIRST STORYのボーカル・Hiroさんが飛び入り参加した動画がSNSで拡散され、一躍注目を集めます。

2020年には「ピーターパン」でメジャーデビュー。そして「ドライフラワー」は男性ソロ史上最速で1億回再生を突破する大ヒットとなりました。

成城高校を中退した15歳の少年が、20代半ばでトップシンガーソングライターになる。この奇跡のような成功は、高校時代の挫折なしには実現しませんでした。

優里さんの物語は、失敗を恐れず自分の道を信じることの大切さを教えてくれます。社会が敷いたレールから外れても、諦めなければ道は開ける。

高校を中退しても、音大を中退しても、本当にやりたいことを追求すれば、成功できる。

もちろん、すべての人が優里さんのように成功するわけではありません。学校を辞めることは、多くの場合リスクを伴います。

しかし重要なのは、自分の人生の選択を自分で決めるということです。

優里さんは、周囲の期待や社会の常識に縛られず、自分の心の声に従って行動しました。その勇気と覚悟が、今の成功を生み出したのです。

高校時代の挫折は、決して無駄ではなかった。それは、シンガーソングライター・優里を生み出すために必要な、かけがえのない経験だったのです。

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